芙蓉屋敷の秘密 他七篇 横溝正史 [#改ページ] [#表紙(表紙.jpg、横144×縦210)]  目 次   富籤《とみくじ》紳士   生首《なまくび》事件   幽霊嬢《ミス・ゆうれい》   寄《よ》せ木細工《ぎざいく》の家   舜吉《しゆんきち》の綱渡り   三本の毛髪   芙蓉《ふよう》屋敷の秘密   腕《うで》 環《わ》 [#改ページ]   富籤《とみくじ》紳士    置きざりを食った並河《なみかわ》三郎  とうとう、並河三郎は置きざりを食ってしまった。  考えてみると、しかしそれも無理からぬ話だ。  若い恋人同士が、ほとんど食うや食わずで同棲《どうせい》している所へ転げこんで、ほとんど三ヵ月というもの、何もしないでごろごろしていたのだから、置きざりにされたとて、だれに恨《うら》みをいうわけにもいかなかった。  それにしても朝木妻吉《あさきつまきち》という男も、よくよく気の弱い人間にできているとみえる。居候《いそうろう》の彼に出て行ってくれということができないで、自分のほうから家を捨てて逃亡してしまったのである。  もともと並河三郎と朝木妻吉とは、函館《はこだて》の中学にいた時分の同窓だったけれど、学生時代、クラスも違っていたし、朝木妻吉がうんとでたらめの弥次《やじ》大将だったに反して、並河三郎のほうはクラスでも相当勉強家の、いわゆる小心よくよく[#「よくよく」に傍点]の部類に属していたので、二人はあまり深い交際をしたことがなかった。  それがどうしたものだろう、学校を出ると、後者の並河三郎は、くだらないことから家を飛び出して、新聞記者になったり、新劇俳優を志願してみたり、そうかと思うと、画塾へ通ってみたり、そしてそれらのうちどれも、一年と続いたことはないのだが、そういったふうなぐうたら[#「ぐうたら」に傍点]な生活に入ってしまったに反して、かつては、クラスでも有名な弥次大将だった朝木妻吉のほうは、その後文学を志《こころざ》して、東京の私立大学の文科に入ったが、そのうちに、現在の恋人さち子と恋に落ちて、学生の身分であるにもかかわらず同棲しなければならない破目《はめ》になり、いまではかなり神経質な生活をしていた。  二人はむろん、学校を出るとすぐその日から離れ離れになって、つい三ヵ月ほど前に偶然神田のカフェーで出会うまでは、一度だって落ち合ったことはなかったし、ましてやお互いに、相手のことを思い出したりなんかしたことは、義理にだってなかったに違いない。でも感心に二人とも相手の顔を見忘れてはいなかった。 「やあ、並河君じゃないか」  最初に相手を認めて、そう声をかけたのは朝木妻吉だった。彼はそのことをあとあとまで執念深く後悔した。 「おや、朝木君」  並河三郎もすぐに、かつての弥次大将の顔を思い出した。 「君が東京へ来ているということは、だれかから聞いていたが、どうしているんだね」  朝木妻吉はほかに連れとてもなかったので、並河三郎のテーブルに椅子《いす》を引き寄せて、向かい合わせに腰を下ろした。 「なにさ、どうもこうもないよ、すっかり弱っちまってるんだ」  並河三郎は耳の上まで垂れかかっている長い頭髪を、左手の五本の指で掻《か》き上げながら、癖で、ちらりと上目使いに相手の顔を見上げた。  ちょうどその日の朝彼は、もう半年あまりも支払いを、とどこおらせている下宿の亭主《ていしゆ》から、三日ののちには、いやが応でも部屋を開けてもらわねばならぬと、厳しく談じこまれて、すっかり自棄《やけ》になっているところだった。 「そいつは困ったね、で、下宿を出て、どこかほかに行くところがあるのかい?」  朝木妻吉は、相手の話につり込まれて、思わずそう親切に問いただした。 「それがないんだよ、何しろ一文なしじゃどこの下宿だって置いてくれやしないよ、荷物でもあればいいんだがね、あいにくのところ、目ぼしい物はみんなくら[#「くら」に傍点]へ入っているんでね」 「でも、だれかいるだろう、先輩とか友人とか……」 「だめだよ、だれだってこう尾羽《おは》打ち枯らしちゃ寄り付きもしてくれないよ」  並河三郎は、ぐいぐいと一杯のビールを一息に飲みほすと、がちゃっとそのコップをテーブルの上に置いて、やけくそになったような笑い声をあげた。  朝木妻吉は、しばらく黙って相手の顔をみていた。それから慰めるようにいった。 「いいよ、いいよ、まあ何とかなるよ。どうにもしようがなかったら、僕んところへでも来たまえ」  むろんそれは衷心《ちゆうしん》からいったわけではなかった。その場の空気が、何かこう、そういわさずにおかなかったのだ。このことについても彼は、あとあとまで後悔の臍《ほぞ》をかんだことである。 「え? 君とこへ転げ込んでもかまわないかい?」  すると相手は、そのことばを真正面から受けたらしく、ちょっとテーブルの上から体を乗り出すようにした。 「いいとも」とはいいながら朝木妻吉はちょっと心細くなって、「もっともあんまり長くちゃ困るがね、こちらも何しろ貧乏世帯のことだから」  と、その終わりのほうを笑いでごまかしてしまうことを彼は忘れはしなかった。  ところが驚いたことには、それから三日目の夕方ごろ、並河三郎がひょっこりと、彼の家へやって来たのである。  むろんその時分には、朝木妻吉は、そんな話があったことをけろりと忘れていた。現に恋人のさち子にすら、一言も言っていなかったくらいである。だからその日並河三郎が、一物も持たずに、そのむかしの名残《なご》りの油絵具でどろどろになったカーキ色の洋服姿で、ぶらりと彼の家へやって来たとき、彼ははっと心臓が固まるような思いがした。 「や、や」と彼は、咽喉《のど》に棒がつかえたような気持ちで、うまくものがいえなかったくらいである。 「よ、よく来たな」  頬《ほお》の筋肉が歪《ゆが》んでしまうような笑顔をしながら、それでも、ようやくこれだけのことをいった。 「いや、あんまりよく来ないんだよ。実はこの間も話したとおり、今日《きよう》とうとう下宿屋から追い出されてね、ほかに行くところがないから、一応君に相談しようと思って来たんだよ」 「そうかい、それはよく来た、まあ上がりたまえよ」  朝木妻吉は、腹の皮が冷たくなるような気持ちを、強《し》いて相手にさとられまいと努力しながら、早口にそういった。 「上がってもいいのかい?」  並河三郎はずるそうな笑いかたをしながら奥のほうをのぞき込んだ。 「いいよ、かまやあしないよ、いまあいにくマダムは買物に行って留守なんだがね、すぐ帰って来るよ」 「そうかい、じゃすまないけど、ちょっと失敬しよう」  そして並河三郎は、三畳と六畳の二間しかない朝木妻吉の家へ上がり込んだのだが、その「ちょっと」をとうとう三ヵ月にまで引きのばしてしまったのである。    親切にする高砂屋《たかさごや》の女主人  朝木妻吉の家は、彼が通っている私立大学のちょうど裏手に当たる、ごみごみとした露路の中にあるのだが、彼の家の真向かいは、「結婚|媒介所《ばいかいじよ》高砂屋」という看板を上げた家の、裏口と向かい合っていた。  並河三郎がそこに転げ込んでから、友人の朝木妻吉は学校へ行くとか、あるいは彼の唯一の収入の途《みち》であるところのある小さな雑誌の原稿取りに回るとか、印刷工場へ校正に出向くとかして、たいてい家にいないし、彼の恋人のさち子は、だいたい並河三郎の存在そのものに対してヒステリーを起こしているくらいだから、家にいても、口ひとつきいてくれないし、だから彼はしかたなしに、半間《はんげん》の張り出し窓に頬づえをついて、向かいの高砂屋の裏口とにらめっこしていたのだが、そうしているうちにいつの間にやら、高砂屋の家の人と懇意《こんい》になってしまった。ことにそこのおかみさんは、彼がすっかり気に入ったらしく、朝木妻吉夫婦には内密でこっそり彼を、晩飯に招待したりした。  それというのが、並河三郎は雪国生まれだけあって、色は白いし、体つきはいいし、つまりなみなみならぬ好男子にできているからでもあるのだ。 「あんなヒステリーの家になんかいないでも並河さん、私の家へいらっしゃいよ。私《わたし》ん家《ち》こうみえたって、あなた一人ぐらいいても食うに困るようなことはありませんよ」  四十がらみの、でっぷりと肥《こ》えたおかみさんは、酒が回ると、なかなかに色っぽくなってきて、彼にもたれかかるようなしな[#「しな」に傍点]をしながらそんなことをいうのである。  それにはさすがの彼も大いに閉口するところであった。  ところが、とうとう、朝木妻吉夫婦に置きざりにされてしまった翌日のこと、すっかり気をくさらした彼は、二時ごろまで雨戸も開けずに寝ていたのだが、するとそこへ、そのおかみさんがやって来たのである。 「まあ、どうしたんですよ、並河さん、朝木さんたちいないの? 表をいま時分まで開けないもんだから、家の者みんな心配していたんですよ」  そういいながら、おかみさんは、たたき[#「たたき」に傍点]に立ったまま、六畳のほうへ寝そべっている彼のほうをのぞき込んだ。 「どうもこうもありませんよ、まあこれを見て下さい」  並河三郎は枕《まくら》もとにあった手紙を、おかみさんのほうへぽんと放り出した。 「何よ?」  おかみさんは不思議《ふしぎ》そうにそれを手に取り上げた。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]   並河君。   君には気の毒だけれど、僕たち事情があってしばらく姿を、隠さなければならない。別に君を敬遠するわけではないが、僕たちが困っていることは君も、万々承知のはずだ。どうぞ気を悪くしないでくれたまえ。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]朝木|生《せい》   [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]   二伸、押し入れの中に夜具と、それから当分君も困ることだろうから、さち子の着物と羽織《はおり》とを残して置く、それをなんとか処分して、都合をつけてくれたまえ。 [#ここで字下げ終わり] 「まあ」とおかみさんは思わずとんきょう[#「とんきょう」に傍点]な声を上げた。「じゃ朝木さんたち、あんたを置きざりにしてしまったのね。どうりで昨日《きのう》、あんたの留守中、何かごてごてしていると思った」  並河三郎は布団の中から首だけ出して、 「おかみさんそれを見ていたんですか」 「ええ、でもそんなこととは知らなかった。それにしても、よくまあ、だれにもないしょで、何もかも持ち出せたものね、きっと前から少しずつどこかへ運んでいたのに違いないわ。しっかりなさいよ、並河さん」  と、おかみさんはとうとう日和下駄《ひよりげた》を脱いで並河三郎の枕もとまでやって来ると、そこにべったりと座り込んだ。 「僕、しかし……」と並河三郎はさすがに少し赤くなりながら、「何しろ、昨日六時ごろ帰ってみると、家の中は電気もついていず空き家みたいにがらんとしているんでしょう? 実際すっかり度肝《どぎも》を抜かれましたよ」 「そりゃそうでしょう? だれだってびっくりしないではいられやしない。これというのも、きっとあのヒステリーの入れ知恵に違いないわ。朝木さん、まさか、そんな不人情なことができる人じゃないから……」  おかみさんは感心したように、すっかり空き家になっている家の中を、じろじろ見回しながらいった。 「しかし、考えてみると無理もないんですよ。彼ら二人でいてすら困っていたのに、僕みたいな人間が転げ込んで来たんですからねえ。それでもよく、三月も辛抱したもんだと、いま感心していたところですよ」 「それもそうね」  おかみさんはそういいながら、目を、並河三郎のかむっている夜具の上に落として、「それに夜具と、当座の食代を置いて行くなんて、ちょっとできない芸当だわね。で、その着物と羽織とはあったの?」 「ありましたよ」 「もう持って行った?」 「行きました。九円貸しましたよ」  並河三郎はにやにやしながらいった。 「そう、九円ありゃ、二、三日はまあ……」 「ところがだめなんです。もうすっかり使っちゃった」 「使ったって、みんな?」  おかみさんはびっくりしたように目を丸くして、並河三郎の顔を上からのぞき込みながら、「みんな使ってしまったって?」 「ええ、みんな……。実はゆうべ、久し振りのまとまった金だし、それにやけくそも手伝ってね、遊びに行ったんですよ」  そして彼は、突然ハハハハハとおもしろそうな声を立てて笑ったのである。 「まあ、この人は!」  と、おかみさんは、二の句もつげないかたちで、あきれ果てたように、笑っている並河三郎の顔をまじまじとながめていたが、「笑いごとじゃありませんよ、いったいそれじゃ今日《きよう》からどうするつもりなの? 若いからまあ、無理もないようなものの……」 「なに、いいんですよ、世の中はまた何とかなりますよ」  皮肉でなしに、彼は天井のほうを向いたまま、おもしろそうに笑っていた。 「あきれたよ、ほんとうに。こんな人、私いままで見たことがないわ。——まあまあ」とおかみさんは、なんということもなく立ち上がって、台所から押し入れから、便所の中までのぞいて回った揚句《あげく》、「ほんとうに何一つ残っちゃいない。しかたがないから、私《わたし》ん家《ち》へいらっしゃい。いかに寝てるとはいえ、朝から何も食べないじゃ、さぞお腹がすいてるんでしょう。さあさあ、何をそんなにのんきそうに笑ってるのよ。ほんとうに笑いごとじゃありゃしない」  そういいながらおかみさんは布団の裾《すそ》に手をかけると、うんと力を入れて、じゃけんにそれをはぐってしまったのである。    さて切り出された奇抜な相談  そんなことから朝木妻吉に逃げられた並河三郎は、今度は高砂屋へ転げ込む始末になってしまった。  さすがに彼も、ちょっとくすぐったい気持ちで、なかなかに居心地のいいわけではなかったけれど、といって、ほかになんとしようもなかった彼は朝木妻吉の家にいたときと同じように、毎日毎日|猫《ねこ》のように退屈しながら、なんと日が経《た》つのは早いことだろうと考えていた。  いったいに彼の良心は麻痺《まひ》してしまって、過去を振り返ってみたり、前途を考えたりすることができなくなっていた。そのてん、現在の彼にとっては好都合であった。  それにしても、高砂屋のおかみさんは、いったいどういうつもりで、彼みたいな厄介者《やつかいもの》を、われから進んで背負うつもりになったのか、どう考えても彼には不可解であった。彼女がなかなかのしっかり者であることは近所のうわさまでもなく、彼もよく知っていた。「あんたが、何だか、他人みたいな気がしないでね、ちょうどあんたみたいな年ごろの息子を、一人ほしいと思っていたところなんだよ」  と、おかみさんはそんなことをいったが、いうまでもなくそれは、彼女のでたらめに違いなかった。 「まさか取って食おうとはいうまい、いずれ時機が来たら切り出すに違いないから、まあそれまでは、せいぜい彼女のために太っておくことだね」  彼もよほどでたらめな人間にできているとみえるのだ。ちょっともそんなことが気にならないばかりか、かえって何を切り出されるか、いっそそれが楽しみなくらいだった。  すると果たして、そうだ、それは彼がそこへ転げ込んでから半月ほど経った時分のことである。 「ちょいと並河さん」  と、いい忘れたが、そのおかみさんには無論一人の亭主があるのだが、その亭主というのは、もう二年越しの中風《ちゆうふう》で、奥の一間に横になったきりであった。だから晩飯のときは、いつも彼女と並河三郎の二人が差し向かいで、彼女が二合ずつつける晩酌《ばんしやく》を、彼も相手をさせられるのだが、その杯を彼に差しながら、さも改まった調子で、おかみさんが切り出したのである。 「そら、来たな」  そう思うと、さすがに彼は胸がどきんとして、思わず杯の酒を少しばかりこぼしてしまった。 「実はあんたに少々お願いがあるんだけど」 「お願いって?」  急に苦くなった酒を、ちょっと舌の先でなめながら、彼の癖で、上目使いでちらりとおかみさんの顔色をうかがった。 「別にそう大してむずかしいことじゃないんだけどね、でもそのわけを聞かれるとちょっとこちらが困るのよ」 「へえ」並河三郎はばかみたいな返事をした。 「明日《あす》ね、あんた朝少し早く起きて、散髪して風呂《ふろ》へ行っていらっしゃい、髪はそうねオールバックか何かにして、そう、アイロンをかけるのもいいわね。つまりできるだけハイカラになっていただくのよ。それから私といっしょに歌舞伎《かぶき》でも見に行きましょう」 「へえ」並河三郎は、なるほどわけが分からないので、そう返事をするよりほかにしようがなかった。 「お願いって、おかみさん、そのことなんですか?」 「そうよ」 「いったい何ごとがあるんです。そんなことだと、むしろこちらからお願いしたいところだな」 「何でもいいのよ、あんたは私のいうとおりにしていればいいの。だからさっきいっといたでしょう、一切《いつさい》わけを聞いちゃいけないって?」 「それは分かってますがね、でも少々変だな。もっともいやなことなんか、決してないけれど、どうしてどうして、ありがたすぎて涙がこぼれるくらいですよ」  おかみさんは、わざとおどけた調子でそんなことをいっている並河三郎を、じっとながめていたが、 「ほんとうにあんたは気楽でいいね。だから私ゃあんたがすきなの」  そういって、何がおかしいのか、急にハアハア笑いだした。  その晩さすがに並河三郎は、早く寝ろといわれたにもかかわらず、なかなか寝つかれないで、いろいろとおかみさんのことばを考えてみた。 「おかみさん。俺《おれ》に惚《ほ》れてるのかな」  その考えは以前からあったことだけれど、その晩もまず第一にそう考えられた。  しかし、よくよく考えてみると、それはいちばん可能性が多そうにみえるが、それでいて、実はいちばん可能性が乏しいのだった。 「どうも分からんな、まあいいや、明日《あす》になったらまたおよその見当ぐらいはつくだろう」  そして間もなく彼はぐっすりと寝込んでしまったのである。  ところが、その翌日、おかみさんの命令どおり床屋へ行って、風呂へ入って、すっかりいい男振りになって帰ってみると、もっと驚くべきことが、そこに待ちかまえていた。  いつの間にこしらえたのか、もっとも一週間ほど前に「並河さん、ちょっとあんたの洋服を貸してごらん」  とそういって、彼の洋服を一日ほど、どこかへ持って行ったことがあるが、そのとき、その寸法で注文したものに違いない、かなりきっちり身に合った新調の洋服が彼を待ち受けていた。 「並河さん、ちょっとこれを着てごらん、よく身に合うかしら」 「え? これを僕が着るんですか?」 「そうよ、ネクタイもカラーもそろえてあるでしょう、外套《オーバー》もいま持って来るはずだから、さあ、何をぐずぐずしているの、いちいち私の顔を見なくってもいいじゃないの、ちゃっちゃっと身につけるんですよ」  そういいながら、彼女自身もせっせと一張羅《いつちようら》の着物と着がえていた。  並河三郎は、龍宮《りゆうぐう》へ着いた、浦島のような気持ちで、でも心の中ではさすがに、なみなみならず不気味に感じながら、おかみさんのきげんをそこねないうちにと、その洋服に手を通しはじめた。 「まあ、いいわね」  おかみさんは、女中に手伝わせて帯を締めながら、口と顎《あご》で、一つ一つ彼の世話をやいていたが、やがて彼がすっかり身じたくをととのえたところを見ると、思わずそう感嘆の声を放った。 「そうしてると、縦から見ても横から見ても、とても立派な紳士にみえるわ、あんたここへ来て鏡をのぞいてごらん、ほんとうに、私《わたし》ん家《ち》の居候《いそうろう》には惜《お》しい器量だよ」  なるほど、おかみさんのいうのはうそではなかった。もともと好男子のうえに姿がよいので、洋服がすっかり身について、白い襟巻《えりまき》に、皮手袋をはめ、帽子をちょっと斜めにかぶって、細身のステッキをにぎったところは、どうしてなかなかさっそう[#「さっそう」に傍点]たるモダン・ボーイの姿だった。 「ああ、そう忘れていた。その鏡台の引き出しに、ひなげし[#「ひなげし」に傍点]の造花が入ってるから、それを忘れないで胸につけて行っておくれね」  おかみさんもようやくこしらえができあがったとみえる。もう一度姿見にうしろ姿を写して見ながら、並河三郎にそういった。    悲しき十二人の富籤紳士  そんなことがあってから、その後一週間ほどの間に、並河三郎は三度おかみさんのお供をしなければならなかった。一度は帝劇へ、一度は松屋へ買物に、そして一度は井《い》の頭《かしら》公園へであった。  いつの場合でも、彼は美しく着飾って、胸にひなげし[#「ひなげし」に傍点]の造花をさし、ただ黙々とおかみさんのお供をするだけであった。それだけで、何かしらおかみさんが秘密に持っている用は足りるらしかった。  並河三郎は内心、薄気味悪くないこともなかったが、どうせ世の中はなるようにしかならないのだという、彼一流の哲学からおかみさんに誘われると、いやな顔一つせずに、むしろ喜んでお供をしたぐらいである。  さて、そうした一週間がすぎて、ある日、また例の晩酌のときに、おかみさんが急に改まって切り出したのである。 「並河さん、私ちょっとあんたにお願いがあるんだけど」 「何です、遠慮なくおっしゃって下さい、おかみさんにはいろいろと御|厄介《やつかい》になっているんだから、どんなことでもしますよ」 「そう、ありがとう、ときにあんた、このごろ私が始終あんたを連れて芝居見物をしたり、買物に行ったりする理由が分かっていて?」  無論分かりませんと、並河三郎は答えた。不思議に思っていたところです、とそれにつけ加えた。 「そう、分からないのはあたりまえだわね、実は、ないしょにしていたけど、あんたの体をぜひ借りなければならないことがあるの」  おかみさんはさすがにいいにくいとみえて、 「まあ一つおあがりな」  と並河三郎に杯を差しておいて、さて、 「並河さん、あんたお金もうけがしたくない?」  と切り出したのである。 「したいですなあ、大いに」 「いや、これは冗談じゃない、本気なの、あんたが承知さえしてくれりゃ、一万円もうかる仕事があるんだけど、いえ、私じゃない、あんたがもうけるのよ」 「へえ?」  並河三郎は杯を置いて、まじまじとおかみさんの顔をながめながら「いったいどんな仕事なんです、そいつは?」 「別に仕事ってほど、大したものじゃないんだけど、ときに……」とおかみさんは、急にまた語調をかえて「並河さん、あんた結婚しないこと?」と切り出した。  なるほど、そうかと、並河三郎は初めて心にうなずいた。この間からのすべてが分かったような気がした。一万円の持参金を持っている娘と結婚しろというのに違いない。そしてこの間からのことは、みんな態《てい》のいい見合いみたいなものだったのだ。 「しますよ、しますよ」と彼は何だか、考えていると、その持参金が逃げて行きそうな気がしたので、あわてていった。「一万円の持参金があるんなら、どんな娘とでも結婚しますよ」 「違うよ、だれが持参金なんか、持って来るものかね。持参金はお前さんのほうが持って行くのよ」 「え? 何ですって? 僕が?」  と、並河三郎がやつぎばやにそう尋《たず》ねるのをおかみさんは抑えつけるようにして、次のような変てこな話を語りだしたのである。  ——実はね、私たちのような職業をしている者が十人ほど集まって、富籤結婚倶楽部《とみくじけつこんくらぶ》というものを作っているの、無論、おかみ[#「おかみ」に傍点]にはないしょよ。で、その富籤結婚というのは、どんなことをするのかというとね、未婚の、なるべく、縁遠そうな女ばかりを勧誘してね、富籤を買わすのよ。一枚が百円でね、千人の会員を、私たち十人が分担して勧誘することになってるの。百円が千人だから都合十万円集まるわけだわね。その金をどうするかというとね。当たり籤を十二枚こしらえておいて、当たった女にみんな分けてしまうのよ。でも、ただそれだけじゃないのよ。その金につけて、男、つまりお婿《むこ》さんを一人ずつつけてやることになってるの。無論、会員にとっちゃ、お金よりお婿さんのほうが目的だから、それだけいつも、お婿さんの選定はむずかしいの。今度も十二人決まっていたんだけど、その中の一人が間際《まぎわ》になって自動車に轢《ひ》かれて、顔にひどい怪我《けが》をしたの、すると会員たちは、あんなひどい男なんかお婿さんに持ちたくないといいだしてね、で、しかたなしに、差し当たりその代わりを出さなければ、脱会するという者さえ出て来たので、あんたに出てもらうことになったのよ。幸い、この間、顔を見せて回ったところが、あんた大した評判よ、あの男がいちばんいいって、ほかの十一人よりあんたがいちばんいいってうわさよ。ちょいと並河さん、奢《おご》んなさいよ。——  並河三郎は、さすがに彼のようなでたらめな男でも、内心思わず舌を巻かずにはいられなかった。富籤で夫を選ぶ、しかもそんな女が千人もいようとは、何かしら彼はあさましいものをでも見るような気がした。 「で、そ、その、富籤はいったいいつあるんですか?」 「明晩、八時から××ホールで、表向きは婦人会ということになってるの。いちばんおしまいの富籤もだから、ただちょっとした余興みたいにしてやるのよ。もっともあんたたち、富籤紳士はその前に、みんなマスクをかけて、舞台から会員たちにあいさつしなければならないのよ」  おやおや、と彼は内心少なからず閉口したことだけれど、根がでたらめな男なので、 「ぼ、僕、や、やります」  と断固として答えたのである。  さて、その当日のことである。  さすがにでたらめ男の並河三郎も、ホール一杯に満ちあふれたものすごい女の顔の海を見たときには、どんなにたえようとしても、細かいふるえが、あとからあとからとはい上がってきて止《と》まらなかったのである。  琵琶《びわ》だの、落語だの、講談だの、そういったふうな子供だましの余興が一とおりすんで、さてそのあとが、十二人の富籤紳士たちがあいさつする番である。みんなマスクをかけているのでお互い同士、はにかむようなことはなかったが、その代わり、少なからぬ敵意と嫉妬《しつと》が、めいめいの胸に燃え上がっていることはたしかだった。 「さあ、みなさん、しっかりして下さいよ。一号さんから順々に舞台に出て下さい」  幹事らしい年増《としま》の女が、命令するようにいった。  並河三郎は第十二号の番号札が胸にかかっていたのであいさつするのも、いちばん最後であった。第一号君が幹事に連れられて舞台へ出て行くと、それこそ小屋の割れそうな烈しい拍手がそこに起こった。中には、 「いよう、色男!」だの、 「女殺し!」だの、  女だてらに、黄色い声を上げてどなる者さえあった。第一号君はすっかり面食らってどぎまぎしているらしく、何か低い声で話をしているようだったが、さっぱりわけが分からなかった。間もなく彼は、真っ青な顔をして、よろよろよろめきながら舞台裏へ帰って来た。  彼が帰って来ると、第二号君がすぐに舞台の上へ引っ張り出された。  そういうふうにして、第一号より第十号まで代わる代わる、それでも無事にあいさつをすますことができた。中には勇敢に、朗々《ろうろう》たる声を張り上げて、自分の姓名素姓を名乗る富籤紳士もあった。 「ああ、とうとうこの次は俺の番だな」  並河三郎は体が熱くなったり、寒くなったりするのを覚えた。すっかり汗ばんだ手をしきりにすり合わせていた。  するとそのときである。舞台のほうから、突然彼の聞き覚えのある声が聞こえてきたのである。 「親愛なる皆さん!」  と、その声は、咽喉《のど》が裂けそうな調子でまずこう叫んだ。「私がこの中の女性のどの人と結びつけられるかもしれませんが、その女性よ、どうぞ私を愛して下さい。私はどんなことでもします。うそではありません、現にこの間まで、私はそうしていました。それだのに、それだのにみなさん、その恋人は私一人を置きざりにして逃げてしまいました。ええ、逃げてしまったのであります」  烈しい女の弥次声《やじごえ》が響き渡った。  ああ、やっぱりあの男だ!  そう思っている瞬間、高砂屋のおかみさんがばたばたと彼のほうへ駆けよって来た。 「並河さん、並河さん、私びっくりした、あれ朝木さんよ、ね、朝木さんよ」 「そ、そうです、朝木妻吉です」  突然並河三郎のマスクは、涙でびっしょり濡《ぬ》れてきたのである。 [#改ページ]   生首《なまくび》事件    恐ろしき小包  和泉屋総兵衛《いずみやそうべえ》は、しがみ火鉢《ひばち》によりかかって、ぼんやりと煙草《たばこ》をくゆらしながら、ポカポカと暖かそうな日の当たった往来を見ていた。  日中の二時ごろのこととて、店は一番|閑散《かんさん》な時刻である。  四、五日前に降り積もった雪も、昨日今日の陽気のために、往来のほうはすっかり解《と》けている。和泉屋と白く染め抜いた紺《こん》の暖簾《のれん》に、春を思わせるなごやかな日差しが当たって、暗い家の中からそれを見ていると、じいんと頭が重くなってくるくらい。  総兵衛は鉄縁《てつぶち》の眼鏡《めがね》を外すと、その玉を拭《ぬぐ》いながら、 「長吉! 長吉!」  と小僧の名を呼んでみた。  返事はない。  ついさきほどまで、往来の犬を追いかけたりして遊んでいた姿が見えていたのに、そのままどこかへ行ってしまったのだろう。しかし総兵衛は、別段大した用事もなかったとみえて、いつものように癇癪《かんしやく》も起こさず、そのまままた火鉢にしがみつく。するとそのとき、 「お父さん、いま何か言って?」  と奥のほうから娘のお玉が顔を出した。 「いいや、何……」  総兵衛は何か深い思案にとらわれていたところだったと見えて、娘の声にびっくりしたようにびくりと半身をあげた。 「でも、いま何か言っていたじゃないの」 「何さ、長吉のやつを呼んでみたのさ。あいつどうもこのごろ生意気《なまいき》なことを言って困る」  総兵衛はつかぬことを言いながら、なるべく娘のほうを見ないようにしている。  和泉屋総兵衛は、質屋仲間でも仏とあだ名されている人物。それだけに儲《もう》けはしらぬが近所の気受けは商売柄《しようばいがら》にもなく悪くはない。ことに娘のお玉のかわいがりようと言ったら、まるで気違いのようである。  七年前に女房がなくなったときにも、後添《のちぞ》いの口は降るほどあったのだが、お玉に苦労させてはと、ことごとくはねつけてしまったくらい。いまでは、だから、総兵衛とお玉と小僧の長吉の三人暮らし。  お玉は年ごろになってくるにつけて、段々人の目につくように美しくなってくる。総兵衛にとっては、無論それが自慢の種ではあったが、また一方にはそれが苦労の種でもある。 「お父さん、このごろ元気がないのね。どこか悪いんじゃないの?」 「うんにゃ」  と総兵衛はあわてて外のほうを見ながら、 「それよりゃお玉、お前のほうが青い顔をしているじゃないか。何か心配事があるんじゃないか。あるなら、このお父さんに、何でもいいから打ち明けたらどうだね」 「あたし?」  と、お玉はそう言われてうつむいた。  父にそう言われるまでもなく、娘のお玉には、娘らしい心配事が山ほどある。しかし、いかに母がわりの父親とて、どうしてそんなことが打ち明けられよう。こんなことを知ったら、父はどんなに憤るだろう。またどんなに落胆するだろう。それを思えば、やっぱり何もかも自分の胸一つにおさめておくのが一番よさそうだ。——  お玉の胸に余る心配とはこうである。  父の総兵衛が、子供のときから世話をして、勉強が好きなところから、私立の大学まで出してやった男、井汲潤三《いくみじゆんぞう》という青年が、このごろちょっとも顔を出さなくなったこと。おまけに人のうわさでは浅草辺のちゃちな劇場に出ている水木瑠璃子《みずきるりこ》という女優にすっかりおぼれて、勤めている会社さえ、ともすれば怠《おこた》りがちなという話。  無論、口ではしっかり約束してあったわけではなかったが、お玉はこの潤三と、すえは夫婦にしてもらえるつもりで、それがこの世の楽しみであったのだ。父の総兵衛にしてからが、内々《ないない》はその腹で、お玉と潤三とが夫婦になった暁《あかつき》は、店はだれか他の者にゆずって、自分は楽隠居《らくいんきよ》で、こうした因業《いんごう》な稼業《かぎよう》からは、すっかり足を洗うつもりであった。  それだというのに、今日このごろの潤三の心得違《こころえちが》い、さてこそ、和泉屋一家に暗い影がさし始めたのである。  そのとき突然、表のほうから、 「和泉屋さん、小包!」  という元気のいい配達夫の声。  総兵衛はぎょっとしたように顔を上げた。お玉が立って行って、それを受け取る。 「小包だって? どこからだい」 「あら、どこからとも書いてないわ。何だかばかに重いこと。お父さん、早速開けて見ましょうか」  総兵衛はおびえたようなまなざしで、ぼんやりそれを見ている。娘のお玉は奥の間から鋏《はさみ》を持ち出した。小包は幾重《いくえ》にも幾重にも、用心深く油紙で包んであって、中のものを取り出すのになかなか骨が折れた。 「何でしょうね、いったい。ずいぶん後生大事に包んだものね」  お玉がそう言いながら、最後の一枚をめくろうとしたとき、総兵衛はあわてたようにその手を押さえた。 「お玉、もうよしな。そんなもの、見なくてもいいじゃないか」 「あら、どうして? お父さん、じゃ何が入っているかご存じなの?」 「え? イ、いいや、もちろん……」  そのときお玉の指は早くも油紙の端にかかった。そしてそれをめくり上げたとたん、 「あれ!」  と叫んで彼女はそこにのけぞるように倒れた。 「お玉、どうした、どうした、え?」  そう言いながら、お玉を抱くようにして小包の中をのぞいた総兵衛。これもあっと言って真っ青になった。  それもそのはず、中は恐ろしい女の生首だった。    被害は水木瑠璃子  送り届けられた女の生首。和泉屋質店の大恐懼《だいきようく》。  そうした記事がごたごたと都下の新聞を飾っているとき、警視庁のほうでも大活動を開始していた。  生首というのは、年齢二十四、五の婦人と推定されるだけで、その他はいっさい判明しなかった。なぜとならば、見るも無惨に、顔と言わず額《ひたい》と言わず、ずたずたに切りさいなまれているので、人相を知るよすがとて、何一つ手がかりはなかった。 「どうだね少しは手がかりがあったかね」  いま、××警察の奥まった一室で、いかめしい顔をしながらそう尋《たず》ねたのは、笹部《ささべ》といってこの警察の署長である。 「さあ、それがね」  と向かいあって腰を下ろしているのが、鬼と呼ばれている栗栖《くるす》刑事。でっぷりと肥《こ》えて、あぶらぎった体格をしている。それでいて見るからに敏捷《びんしよう》そうな身のこなし、眼光からしてが、普通の刑事と、その趣《おもむ》きを異《こと》にしている。あるときは猫《ねこ》のように優《やさ》しくなるかと思えば、あるときはまた、隼《はやぶさ》のごとく鋭く光る、栗栖刑事の目は、いま猫のように穏《おだ》やかだ。それは、彼がいま何事かに考えふけっている証拠である。 「医師の診断によると、二十四、五の女で、相当|贅沢《ぜいたく》な暮らし向きをしていたに違いないというのです。しかし、何しろあのとおり、顔面がずたずたに切り刻《きざ》まれているので、一向被害者の手がかりがなくて弱ります」 「小包の発送元は静岡だというが、そのほうはどうだね」 「無論、手落ちはありません。十分手配はしてあります。しかし——」  と言って栗栖刑事は口を切った。 「しかし、——何だね」 「いや、たぶんそのほうはむだだろうと思うのです。小包の発送駅など、あまり当てになるものではありませんからね。やろうと思えば、わざわざ台湾《たいわん》からでも、朝鮮からでも、どこからでも発送することはできます。しかしまあ念のために、手は尽くさせていますけれど、それより……」 「それより?」と署長は鸚鵡返《おうむがえ》しに聞きながら膝《ひざ》を進めた。栗栖刑事が、「それより」と言うときには、必ずそこに何らかの確信があるのだ。 「それより、ただ一つここに、被害者の身元調査について手がかりがあるのです。というのは、ごく小さいのですが、被害者の左の奥歯に、最近|金《きん》をかぶせた跡があるのです。だから、市内の歯医者をいっせいに取り調べたら、何か手がかりがあるかも知れません」 「フーム」  と署長は腕をこまねいて、太い息を鼻から吐き出したが、 「しかし君、被害者が東京の者だということが分かっているならそれでもいいが、もし他国の者だったらどうするね。何しろ発送駅も静岡ということになっているし……」 「いや、それなら」  と栗栖刑事はさえぎって、 「九分九厘《くぶくりん》まで東京の者だろうと私は信じております。というのは、まだ御報告申し上げませんでしたが、あの小包に使用された油紙です。あれは東京製の品物で、この東京よりほかに販売されていないものなのです。それは送り先を和泉屋と目星《めぼし》をつけたところから考えても、この被害者、並びに犯人は、どうしても東京の者だと信じられます」 「なるほど、そう言えばそうだが」  と署長も考え深そうに、 「で、歯医者のほうへは手を尽くしているのかね」 「はい、手落ちなく、虱《しらみ》つぶしに調査させておりますから、間もなく判明することだろうと思われます」 「何しろ、新聞のほうで、ああ仰山《ぎようさん》にたたきやがるし、一日も早く犯人をあげなければ、また上のほうからお目玉だぞ」 「ナーニ大丈夫です。被害者の身元さえ見当がつけば、あとはもうしめたものです。こういう事件はかえってばたばたと片付くものですよ」 「それならいいがね」  署長と鬼刑事とは顔を見合わせた。  そのときである。  突然ドアが開いて、どやどやと若い刑事が二、三人飛び込んで来た。 「署長! 被害者の身元が分かりました」  と一番に飛び込んで来たのが、興奮した声でそう叫ぶ。 「何? 被害者の身元が分かった?」  署長と栗栖刑事はいっせいに椅子《いす》からはね上がった。 「はい、浅草の遠藤という歯医者が証言したのです。いま連れて来て次の部屋に待たせてあります」 「して、その被害者というのは?」  栗栖刑事は待ち切れなそうにあとをうながす。 「はい、浅草の新進劇場へ出ていた水木瑠璃子という女優だということです」    静岡にいました  被害者の身元が分かると同時に、刑事は八方に飛んだ。  まずその第一班は和泉屋親子を検挙するために、第二班は井汲潤三の勤めている会社のほうへ、そして栗栖刑事自身は部下の者一名を引き連れて山の宿《しゆく》にある水木瑠璃子の家へ。  和泉屋親子はあの忌《い》まわしい小包がとどいた日より、表を閉《とざ》して商売は全然休んでいた。そしてただひたすらに、素姓《すじよう》の知れぬあの生首の女のために法要を怠らなかった。  いったい何のために、選《よ》りに選ってこの和泉屋へ、あの忌まわしい贈り物がとどけられたのか、無論、総兵衛にもお玉にも少しも解せなかった。単なるいたずらか、それとも何かの因縁《いんねん》があるのだろうか——。第一顔がめちゃくちゃに切りさいなまれていたので、人相を知るよすがもなかったけれど、考えてみたところ、自分たちの身内の者に、あの年ごろの女は思い当たらなかった。  何にしても、とんだ災難に突き当たったものだ——、総兵衛は世間へ対しても、面目《めんぼく》なくて顔が出せないような気がして、あれ以来ちょっとも外へ顔を出さなかった。  お玉はまたお玉で別の苦労があるのだ。  あの大騒ぎがあった少しあと、彼女は恋人の潤三の勤めている会社のほうへ電話をかけてみた。ところが、意外なことには、潤三はこの二、三日、無届けで会社のほうを休んでいるとのこと、そこで早速下宿のほうへ使いをやってみたが、ここも二、三日前に家を出たきり、いまだに帰って来ないという話。お玉はまったく取りつく島を失ってしまった。  それにしても、ああして新聞でぎょうぎょうしく書き立てられている事件だもの、潤三もきっとどこかで読んでいるのに違いない。  それだのに、なぜ見舞いに来てくれないのかしら——、それを思うとお玉の胸は暗くなり、心は鉛のように重苦しくなるのだった。  警察の検挙の手が入ったのはそうした折り柄であった。警察側では無論、和泉屋——井汲潤三——水木瑠璃子——、そこにある忌まわしいもつれを知っていたのだ。従ってお玉親子は水木瑠璃子殺害の有力なる容疑者でなければならなかった。  一方部下を引き連れた栗栖刑事は、宙を飛ぶようにして山の宿なる水木瑠璃子の家へ走って行った。  彼女の家は、山の宿は裏通りの、ささやかながらも、女優の住居らしい小意気《こいき》な表がまえ、留守と見えて裏も表もちゃんと錠が下りている。  近所のおかみさんに聞いてみると、 「水木さんですか、水木さんならいまお留守ですよ」 「お留守? どこへ行ったか分からないかね」  栗栖刑事は目的の家に踏み込む前に、何か予備知識となりそうなことを聞き出す考えである。 「はい、何でも浅草を打ち上げたので、地方巡業だとかいう話でした。振り出しは静岡とかいう話で……」 「ホウ!」  静岡と聞いて、栗栖刑事は思わず低い叫び声を上げた。 「それで何かね、留守番の者はいないのかね?」 「それが何しろお弟子の花代さんとの二人住まいのことですから……。もっともお客さまはたいてい毎晩おありのようでしたが……」  おかみさんはそう言って変な笑い方をする。 「フン、すると二人とも巡業に出ているというのだね」 「はい、さようで、用心のほうは私どものほうで頼まれておりますので、何しろこの界隈《かいわい》一切の差配は私どもにまかされているものですから、めんどうでもやはり……」 「ああ、すると君がこの家の差配かね。それならちょうど好都合だ。実は……」  と粟柄刑事は自分の名刺を相手に示しながら、 「この家についてちょっと取り調べたいことがあるのだが、開けてもらえまいかね」  おかみさんは刑事の名刺を見てもあまり驚かなかった。思うに水木瑠璃子の家では、始終警察の手をわずらわすような事件を引き起こしているのだろう。 「ええ、よろしゅうございますとも、何しろ水木さんもあまり何ですからねえ、近所でも迷惑しているんでございますよ。毎晩毎晩男のかたがお見えになるんでございましょう。それも同じかたじゃなくて次から次へと変わっていくんですから、あきれたものでございますよ」  おかみさんは聞かれもしないことをべらべらしゃべり立てながら、愛想よく水木かたの表の戸を開いてくれた。  中は無人の家特有の一種の臭気《しゆうき》をたたえているが、わりあいにさっぱり片付いている。栗栖刑事は部下の者に命じて戸という戸を全部開け放った。急に飛び込んで来た午後の日足の中に、びっくりしたように埃《ほこり》が立ち舞っている。  刑事は表の部屋から奥の間へと綿密な注意を払って進んで行く、突然あとからついて来た部下の刑事が、 「あっ! 血が……」  と叫んだ。  そう言われてみると、なるほど奥の間の壁には、すうっと、一筋血潮の飛沫《ひまつ》が尾を引いている。  血と聞いて、あとから入って来た差配のおかみさんはさっと顔色を失うと、がたがたとふるえだした。 「血でございますって? どこに……」  そう言いながら茶の間をのぞいた彼女は、まるで泥人形《どろにんぎよう》のように、へなへなとそこへくずおれた。 「おい、兇行はここで行なわれたのだぞ! もっとよく調べて見ろ!」  栗栖刑事がそう言ったとき、いま彼らが入って来た表の戸ががたがたと鳴った。そしてだれかが入って来る足音。と次の瞬間には、まるで幽霊のような顔青ざめた一人の青年が、取り乱した格好で茶の間をのぞき込んだ。彼は意外な男たちの姿に、びっくりしたように目を見張って不思議そうに刑事を見ている。  栗栖刑事はその男の姿を見るやいなや、何を思ったのか、つかつかとそのほうへ歩みよった。 「おい! 君は井汲潤三だね?」  青年は突然見知らぬ男から名をさされたので、驚いたように刑事の顔をながめていたが、やがて、 「そうです。井汲潤三です。してあなたは?」 「僕は警察の者だが、いま君の行方《ゆくえ》を調べていたところだ。君はいったいどこにいたのだね?」 「僕ですか……」  井汲はちょっとためらっていたが、やがてぐるぐる辺りを見回しながら、 「僕は静岡へ行っていました、瑠璃子さんを追いかけて……」  と言った。    入れ歯の秘密  水木瑠璃子殺しの容疑者として検挙された有力な三人のうち、言うまでもなく井汲潤三の嫌疑《けんぎ》が最も重かった。  彼は小包の発送元静岡へ行っている。もっとも瑠璃子を追いかけて行ったとは称しているが、それは犯人特有の巧みな技巧であって、自分が殺したものを、あたかも生きていることを信じているがごとく追いかけて行くということは、世間をあざむく術としてよくやりそうなことである。  しかし取り調べが進んでゆくに従って、ここに一つの錯誤が生じてきた。というのは、井汲潤三が静岡へついたのは、あの恐ろしい小包が発送されたときより、数時間後であるということが判明した。それは最も厳重な取り調べの結果によって判明したことであるから、全然まちがいはない。とすると、あの小包を発送したものは、彼でないということが分かる。またもう二人の容疑者、総兵衛親子については、彼らが最近、数時間も家を空けたことがないという事実をもって、まったく疑う余地はなくなった、とすると、小包の発送者——それが犯人に違いないと推定されるのであるが——はいったい何者であろうか。  事件は再び迷宮に入りそうになってきた。  ただここに最も注目すべきは、水木瑠璃子が殺害されると同時に、弟子の花代が行方不明になっていることである。警察の取り調べたところによると、静岡へ旅立った一座のうちには、瑠璃子はもちろんのこと、花代も加わっていなかったのである。あるいはこの花代という女が犯人ではなかろうか。警察側では改めてこの花代の行方を調査し始めた。  かくして、せっかく見え始めたと思った曙光《しよこう》が次から次へと、あとかたもなく消えてゆくに従って、栗栖刑事の頭は混乱してきた。  彼は毎日、自分の部屋に陣取って、この事件の中に隠れている、まだ何者にも知られざる秘密を解こうとして苦悶《くもん》していた。  水木瑠璃子——井汲潤三——和泉屋親子——弟子の花代——  そうした名前が消えたりついたり、まるで広告電気のように彼の頭の中を回転した。彼はやけくそになったように、乱暴にその名前を紙の一端に書きつけていた。  と突然!  彼はまるで電気仕掛けの人形のように飛び上がった。 「分かったぞ! 分かったぞ!」  彼は気違いのように叫びながら署長の部屋へ駆け込んだ。 「畜生! うまくやりやアがった! 畜生」  それから二、三時間ののち、例の部下一名を引き連れた栗栖刑事の姿は、再び山の宿に現われた。  しかし今度彼が訪《おとず》れたのは、先の水木瑠璃子の家ではなくて、遠藤歯科医という看板の上がった家の前だった。  案内によって彼はただちに、二階の診察室へ通された。幸い他にはだれ一人客はいない。  間もなく階下から上がって来た遠藤は、普通の患者だとばかり思っていたのが、意外にも見覚えのある栗栖刑事だったので、ちょっとびっくりしたように立ち止まった。 「やあ、遠藤さん。この間は失礼しましたね」  栗栖は愛想よくそう言いながら立ち上がる。 「ああ、栗栖さんですか。私はまた患者だとばかり思っていましたのに……」 「いや、ちょっとお聞きしたいことができましてねえ」 「ああそうですか、まあおかけ下さい」  遠藤はなぜか顔色青ざめて、そわそわとしている。 「お尋ねというのは、他でもありませんが、あなたが水木瑠璃子に入れ歯をしてやった日ですがね、それをはっきりとうけたまわりたいので」 「は、何かと思えばそのことですか、いや、帳簿を見ればすぐ分かることです。ちょっと待っていて下さい」  いったん隣室へ入った遠藤は、すぐに帳簿を持って引き返して来た。 「ええと、水木瑠璃子、あ、これですね。日付は一月十三日——、一月十三日ですね」 「はア、なるほど、一月十三日、まちがいはありませんね」 「まちがいはありません」 「で、その時刻のことはよく分かりませんか」 「ええと——」  遠藤はしばらく考えていたが、 「そうそう、ちょうど四時半ごろでした。やっているところへ電気がついたのでよく覚えています」 「なるほど、すると一月十三日の午後四時半ごろ——、まちがいはありませんね」 「ありません」 「ところが遠藤さん」  と、刑事は急に膝《ひざ》を乗り出して、 「私のほうで取り調べたところによると、一月十三日の午後四時半ごろには、水木瑠璃子はたしかに舞台に立っているはずですがね」 「え?」  遠藤医師は急に血の気がなくなった。 「ねえ、遠藤さん、舞台に立っていたはずの瑠璃子がここで、同じ時刻に手術を受けていたというのも変な話ではありませんか」  遠藤はいよいよ顔色を失って、何か救いを求めるようにきょろきょろと辺りを見回している。 「遠藤さん、私の推察したところを言いましょうか。あなたに入れ歯をしてもらったのは、瑠璃子ではなくて実は弟子の花代なんです。ではなぜあなたがまちがったのか——、どうしてどうしてちゃんとそういう風にあなたが仕組んだのです。花代に入れ歯をしておいて、それを瑠璃子だと記帳しておく。そうすれば、今度花代の生首が現われたときには、それを証拠に瑠璃子だと証明することができますからね」 「あなたは——、あなたはいったい何を言っているんです」  遠藤はそう言って立ち上がりかけたが、思わずよろよろとよろめいた。 「おい遠藤!」  栗栖刑事は急に語気を変えた。 「お前たちのからくり[#「からくり」に傍点]はすっかり分かっているんだぞ。お前の情婦瑠璃子が借金で首が回らなくなっているうえに、おもちゃ[#「おもちゃ」に傍点]にした若僧からはつけねらわれる。そこで仕組んだのが今度の芝居だ。花代を殺してその首を和泉屋へ送り、井汲潤三に嫌疑をかける一方、瑠璃子を死んだものにしてしまおうという魂胆《こんたん》だろう。おい、死んだはずの瑠璃子がこの家の中ですましているなどとは、それこそおしゃか[#「おしゃか」に傍点]様でもご存じないところだ、だが、この栗栖刑事だけはお前なんかにだまされはしないぜ。神妙に白状してしまえ!」  栗栖刑事がそう言って立ち上がったときである。  突然隣室から轟然《ごうぜん》たる銃声が起こった。そして間のドアが開いて、よろよろと倒れこんだ一人の女、それこそまぎれもなく水木瑠璃子の姿であった。 [#改ページ]   幽霊嬢《ミス・ゆうれい》  蒲田《かまた》の撮影監督|山野茂《やまのしげる》は、久し振りでのうのうとした気持ちで、朝の十一時ごろ池上《いけがみ》の自宅で目を覚した。撮影の暇なときでも、めったに九時より遅くまで寝ていたことのない彼であったが、この日だけは特別であった。  十二巻という大物、ことにそれが故障に故障を重ねた撮影であっただけに、それがすむと彼はもうぐったりとしてしまって、身も心も疲れ切ったような気持ちだった。いったいに彼は撮影運のよくない男で、ことにロケーションにおける運の悪さときたら、蒲田中でも定評になっていた。彼のロケーションには雨がつきものだというところからあめかん[#「あめかん」に傍点]という渾名《あだな》までついているくらいである。  それほどの彼であったが、今度の撮影ほどいろんな故障に見舞われたこともまた珍しかった。それは「鎖《くさり》の環《わ》」という題名の、蒲田随一の人気俳優|宇津木天馬《うつきてんま》を主役とした一種のクルック・プレイで、春のシーズンのトップを切るべき超特作品であった。ところがその撮影がはじまると間もなく、道具方の不注意から、大道具が倒れかかって主役の宇津木天馬が腕を折った。幸いそう大したことでもなかったが、それでも五日ほどそのために撮影を遅らせなければならなくなった。再び撮影を開始したかと思うと、今度は相手女優の真田鈴代《さなだすずよ》が風邪《かぜ》をひいて三日ほど自宅にひきこもらなければならなくなる。ロケーション地では、例によって雨にたたられて、三日の予定が一週間以上にも延びてしまう。事務所のほうからは、そうしたやむを得ない事情も一向おかまいなしで、四月二日の封切り日までにぜひ間に合うようにとじゃんじゃん言ってくる。さすが物に動じない山野茂監督もすっかり気を腐らせてしまったほどである。  たいていの監督ならここらで投げてしまって、あとはいい加減な間に合わせものにしてしまうところだが、山野茂はそれができない性分だった。事務所からわけも知らずに急《せ》きたててくるのは癪《しやく》だったが、そうかと言ってごまかしものを作るのは良心が許さなかった。 「損な性分だなア」  年《ねん》に十何本かを作って会社から表彰されたりする監督があるのを見て、ときには彼も苦笑することがあったが、さて自分にはやろうと思ったとてできない仕事であることを思うと、そうその監督をうらやましがる気持ちにもなれなかった。  それでもようやくロケーションを切り上げ、残った部分を三日ほど徹夜して撮《と》り上げ、さて編集や何かでまた一苦労した揚句《あげく》、ようやく試写の運びにまでこぎつけたのが昨日のこと、封切り日にやっと間に合うぐらいの日数しかあとに残っていなかった。試写を見ると、それでも、あんなに続出した故障のうちに、しかも封切り日に追い立てられながら作ったものとしては、まあ上出来の部であった。 「大丈夫、これならきっと受けますぜ。この前の『空の勇士』もようござんしたけど、今度のはあれ以上ですぜ」  試写がすむと宣伝部の一人がそう言って肩をたたいてくれた。「空の勇士」というのは、彼がこの前に作った写真で、剣劇物に圧倒されているかたちの現在としては、珍しいほどの成績をあげたものである。所長も満足らしい顔をしていた。 「しかたがないや。アメリカみたいにうん[#「うん」に傍点]と金と時間をくれりゃ、もっといいものにしたんだがなア」  いつも試写を見たあとに必ずもらす感慨を、そのときももらしながら宇津木天馬といっしょに狭い試写室を出た山野茂は、そこで急に話ができて二人で銀座へ出たのであった。  それからあとのことを彼はあまりよく覚えていない。カフェーから酒場《バー》へ、酒場《バー》からカフェーへと、久し振りの銀座を思うさま享楽《きようらく》しているうちに、仕事のすんだ気安さからか、二人ともひどく酔っ払ってしまって、しまいにはポロポロ涙を流しながら議論をしたことを、うすぼんやりと覚えている。 「はてな、あれはどの店だったかな」  八畳の部屋の真ん中にのべた寝床の上に、腹ばいになって枕《まくら》もとの敷島《しきしま》を引き寄せていると、そこへこれもやっぱり同じ撮影所の女優だった細君が入って来た。 「お目が覚めて、どう?」 「うん」簡単な返事に言葉を濁しながらそっぽを向いて敷島に火をつけた。いつものことながら、酔っ払って帰った朝はさすがにきまりが悪かった。 「大変だったわ、ゆうべは……」 「うん、すっかり酔っ払っちゃって」 「宇津木さんに気の毒でしかたがなかったわ」 「どうしたい、宇津木は?」 「どうもこうもないわ。あなたがまだなんだかんだと駄々《だだ》をこねていらっしゃるのを、やっとなだめておいて、お帰りになったわ」 「そうか」 「こんなに酔っ払っていいのかしらなんて心配していらしたわ。明日また見に来ますと言ってお帰りになったから、お昼過ぎにでもいらっしゃるでしょう」 「それは気の毒したな」 「あなた、どう? 御飯は?」 「うん、いま起きる」  洗面所で冷水|摩擦《まさつ》をして、頭からざっと一杯水をかぶるとそれでも大分気持ちがはっきりした。そこで簡単な朝とも昼ともつかない飯をすませると、そのあとで新聞を取り上げた。そして一通りそれに目を通すと、今度は手紙へ目を通すのが、家にいるときの彼の日課になっているのだった。  俳優とは違って、それほど多くはなかったけれど、それでもファンから来る手紙はかなりたくさんある。山野茂は活動屋としてはこくめい[#「こくめい」に傍点]なほうだったので、一応はそれらに目を通さなければ気がすまなかった。  日当たりのいい縁側に籐椅子《とういす》を持って来て、それに腰を下ろすと、細君に命じて手紙を持って来させた。 「いい天気《てんき》だね」 「ええ、すっかり春よ。ほら、お隣の桜があんなにふくらんできたわ」 「皮肉だな」 「え、何が?」 「ううん」彼はロケーション先のさんざんな天候を思い出して苦笑しながら、細君の持って来た数通の手紙を手に取って膝《ひざ》の上に置いた。 「あなた、その中に鈴木としという差し出し人の手紙があるでしょう。それ、なんだかファンの手紙じゃなさそうね」 「どれ」山野茂はそう言いながら、手紙の中から一通探し出した。なるほどそう言えばそれだけは他のとは違っていた。ファンからの手紙といえば、きまって色のついた、中には派手《はで》な模様さえついた、近ごろ女学生なんかの使うあの封筒にきまっているのに、これだけは地味な日本封筒で、表に書いてある字も紫色のインクの代わりに、かなり達者な毛筆で書いてあるのだった。 「あなた、そのかたご存じ?」 「いいや、覚えがないね」  しかしそう言いながら、他のと違っているところに気を引かれて、彼はまず第一にそれの封を切る気になった。  ところが、果たしてそれは普通のファンから来る手紙と全然その趣《おもむ》きを異《こと》にしていたのみならず、ひどく不思議《ふしぎ》なことが書いてあって、かなり長い手紙で、しかも読みなれないお家流《いえりゆう》の字に苦しみながらも、山野茂は一気にそれを読み終わらなければいられないほどだった。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]  拝啓。  陽気常ならぬ折から、そもじ様《さま》にはますます御健勝にわたらせられ候《そうろう》よし、大慶至極《たいけいしごく》に存じ上げ候。さて私《わたくし》こと、突然かような手紙を差し上げ、はなはだ失礼のことと存じ候《そうら》えども、そもじ様におすがり申すより他によき思案とてもこれなく、失礼をも顧《かえり》みずかかる手紙を差し上げ候。なにとぞ、なにとぞ、お許しのうえ一通りお聞き取りのほど願い上げ候。  数日以前のことにござ候《そうろう》。私こと姪《めい》のみち子というに誘われ候《そうろう》て、久方振《ひさかたぶ》りにて青山の××館へ活動写真を見物にまいり候《そうろう》 節《せつ》、「空の勇士」とやらん申し候活動写真を拝見つかまつり候。もともと私こと、活動写真とはいと縁遠き老女に候《そうろう》て、一向何事もわきまえかね候《そうろう》女に候えども、くだんの活動写真を拝見つかまつり候てよりいたく感動つかまつり候。と申し候は余《よ》のことにはござなく、あの中に出てくる「俊夫《としお》」とやら申し候少年に扮《ふん》する役者のことにござ候。  突然かようなことを御尋《おたず》ねまいらせ候えば、さぞやいぶかしきことに思《おぼ》し召《め》されんとは存じ候えども、あの役者は果たして男子に候や、それとも女子にはござなく候や、その儀《ぎ》ぜひともお尋ね申し上げたく、かくはお尋ねまいらせ候。理由も申さず、突然かようなことを尋ねまいらせ候て、さぞぶしつけなるやつとおさげすみもこれあり候《そうら》わんが、ゆえありて私こと、いまここにくわしきことども申し上げ候には、いささかはばかりこれあり候ことにござ候。とはいえ、あまり何事も包み隠し候ては、かえっておんあやしみのほども察せられ候|間《あいだ》、さわりなきほどに事情をお話し申し上ぐべく候。  もと私こと、さる大家《たいけ》に御奉公つかまつり候|乳母《うば》に候が、そのお邸《やしき》の令嬢にてなにがしと申し候|娘御《むすめご》が、数ヵ月以前より突然|御行方《おゆくえ》知れ申さず、両親は申すに及ばず、幼きころよりお養い申し上げ候私ことも、いたく心痛つかまつりおり候。令嬢と申し候は、当年二十一歳にて、いと快活なるお生まれにござ候が、昨年の暮れ、突然家出をなされ候てより、一向お便りもこれなく、ほうぼうとお探ね申し上げ候もついに御行方|相《あい》分からぬ始末にこれあり候。私こと御両親のおことばまでもなく、それ以来常日ごろ心を痛め、折りもあらばお探ねまいらせ候も一向その甲斐《かい》もこれなく、心のうちに悲嘆の涙にかき暮れおり候いし折りから、くだんの「空の勇士」となん申し候活動写真を拝見つかまつり候て、久方振りにて令嬢のつつがなきおん顔を拝みたてまつり候よう思い候。と申すは余の儀にこれなく、あの活動写真のうちに出てまいり候「俊夫」とやらの顔かたちは申すに及ばず、姿、歩きぶりまで令嬢と寸分の違いもこれなく令嬢が男姿になされ候えば、さぞやかかるらん姿にて候わんと存ぜられ候ほどにござ候。  疑いはこればかりにてはござなく、あの活動写真の終わりのほうにて、「俊夫」と申し候少年が、中尉を抱き起こし候場面にて、姪の申すには大写しとやらに候が、突然二人の姿が大きく写り候節に、ふと見れば「俊夫」と申し候少年の左の腕に懐中時計に似たるあざのこれあり候ことにござ候。おん探ねまいらせ候令嬢には、いとけなきころより同じようなるあざのこれあり候こと、私ことよくよく記憶つかまつりおり候間、いたく驚き申し候。  よもやとは存じ候えども、令嬢の男姿に相なされ候て、活動役者になされ候にはこれなくやと、私ことおぼるる者わらのたとえにもれずおん尋ねまいらせ候次第にこれあり候。姪に尋ね候も番付を拝見つかまつり候も、俊夫とやらに扮し候役者の名前相分からず、そもじ様のお作りなされ候活動写真にて候えば、そもじ様におん尋ねまいらせ候えば、相分かることと姪の申し候につき、ぶしつけをも顧みず、かくはおん尋ね申し上げ候次第にござ候。  まことにまことに、勝手がましくは候えども、あの役者の名前住所など御存じに候えば、御手数ながらおしらせくだされたく幾重《いくえ》にも、幾重にも御願い申し上げ候。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]鈴木とし     山野茂様 「ほほう」山野茂はその手紙を読み終わると、思わず溜息《ためいき》に似たようなものをもらした。 「どうしたの?」  さっきからあまり夫が熱心に読んでいるのを、いささか気にしていた細君はそう聞いた。 「ずいぶんおもしろい手紙だよ。お前も読んでごらん」  細君も子供の洋服を編んでいた手を止めて、夫から投げられた手紙をていねいに巻きかえて読んでいたが、やがて読み終えると、膝の上にそれを置いたまま、 「まあ!」と言って夫の顔を見上げた。女だけに彼女は一層感動している模様だった。 「不思議な手紙だろ」 「不思議だわ。まるで探偵小説ね」 「そう。探偵小説のようだね」 「それでどうなの。あなたはどうお思いなの」  細君は多分に好奇心を動かしたらしく夫にそう尋ねた。 「うん、俺《おれ》もいま考えているんだが、どうも俺も前からおかしいと思っていたんだよ」 「おかしいって、この……、役者のこと?」 「うん、そうだ」 「なんて人? これ」 「分からないんだよ、それが」 「まあ」細君はあどけない目を丸くして夫の顔を熱心に振りあおいだ。 「だって、あたしもあの『空の勇士』を見たけれど、あの人ほら『俊夫』とかに扮した役者、ずいぶんうまい役者だったじゃない? あの人の名前を御存じないの?」 「それが分からないんだよ。お前も知ってるだろ。あれは募集でやって来た役者でね」  蒲田の名《めい》シナリオ・ライターと言われている板村尾松《いたむらびしよう》が書き下ろした「空の勇士」を、いよいよ山野茂と宇津木天馬とのコンビネーションで製作するときまったときのことである。いまの蒲田にいる俳優にはどうにもふり向けようのない役が一つあった。それが「俊夫」である。 「おかしいね。夢二《ゆめじ》の絵じゃいつでもこんな少年が出て来るのに、実際となるといないんだね」 「ガレス・フューズだの、バリー・ノートンって、アメリカにゃいるがね。日本の少年はいやに早くからこまちゃくれ[#「こまちゃくれ」に傍点]てしまうからだめなんだね」 「いっそ女優にやらせたらどうだろう」 「だって、この役はやっぱり髪を切ってしまうんだから、女優にゃかわいそうだよ。それにぶくぶく脂肪太りのしている女じゃごめんだね」  シナリオ・ライターの板村尾松と監督の山野茂と、主役をやることになっている宇津木天馬の三人が、さんざんそんなふうに頭をひねった揚句《あげく》に、結局どうにもしようがなくて、新聞で募集しようということになった。それに選ばれたのが、鈴木とし女《じよ》のいう「俊夫」に扮した役者であった。  新聞広告によって集まった少年志願者は百名以上もあった。その選考の衝《しよう》に当たったのは板村尾松であったけれど、彼が選んだ一人の少年を一目見るや、山野茂はすっかり気に入ってしまったのであった。日本の少年というやつは中学へ入るころからめきめきと大人びてしまって、ことに美少年になるほど少年らしさがなくなるものだが、彼に限って、透明なナイーヴさを多分に身辺に持っていた。それがまず山野茂の興味を引いたのであった。細面《ほそおもて》の夢を見るような目をした、ちょうど夢二の絵に出てくる少年のように、ふさふさと髪を額《ひたい》の上に垂らした少年であった。 「すてきじゃないか、日本のガレス・フューズだね」  と山野茂が言うと、 「あれなら、僕は主人公にして書いてもいいよ」  板村尾松がそれにこたえたほど、彼は珍しい一風変わった美少年だった。名前は白木静夫《しろきしずお》といって、本所《ほんじよ》の叔母《おば》の家にいるという話であった。 「まあ、あれがそうなの。あたしその話は聞いていたけれど、写真を見るとあまりうまいものだから、準幹部ぐらいかと思っていたわ。で、その人いまどうしているの?」 「それが分からないんだよ。『空の勇士』の撮影がすむと、そのまま姿を見せなくなったんだ。板村君なんか残念がって本所の叔母という家へわざわざ探しに行ったりしたんだけれど、とうとう分からずじまいさ」  山野茂はそう言いながら、細君から鈴木とし女の手紙を取りもどすと、もう一度読み直してみた。 「あなた、で、どうお思いになって? そう言われればその人女のようなところがあって?」 「分からないね。宇津木に聞けばもっとよく知っているかもしれないよ」  それから間もなく、やっぱり彼ら夫婦が不思議な少年(?)について語り合っているところへ、待ちかねていた宇津木天馬が、 「やあ、どうしました」  と彼一流の威勢のいい声をかけて入って来た。日に焼けたどこを見ても役者らしくない健康そうな青年で、ぴったりと身についた乗馬服を着ている。山野夫婦の顔を見ると縁《ふち》の広い帽子にちょっと手をやった。 「ゆうべは失礼。実はいま君を待っていたところだよ」  山野茂は彼の顔を見るとうれしそうに籐椅子から腰を浮かせた。 「奥さん、ゆうべは失礼。どうしました。お困りだったでしょう。兄貴《あにき》があんなに酔っ払ったのは僕も初めてですよ」  宇津木天馬はそう言いながら右の手に巻きつけていた鞭《むち》を元気よく振ってみせた。 「宇津木さん、どこかへお出かけ?」 「ええ、兄貴を引っ張って馬にでも乗りに行こうかと思ったのです。だめですか、今日は?」 「だめってことはないけれど、それより宇津木さん、大変なことがあるのよ」 「大変なことってなんですか。いやだな。二人ともやに[#「やに」に傍点]にやにやしているじゃありませんか。何か一杯かつごうってんじゃありませんか」 「そんなことはありませんわ。それはそうと宇津木さん、ゆうべはごめんどうさま。いまちょっとお茶を入れますから……」 「だからおかしいてんですよ。いまさらお礼でもないでしょう。朝っぱらからなんだか気味が悪いなあ」  宇津木天馬はそう言いながらも、別に気味悪がるふうもなく細君のすすめた布団の上に腰を下ろして、 「なんですか、そのおもしろいことというのは?」と尋ねた。 「これ……」山野茂は簡単にそう言って、それまで膝《ひざ》の上に置いていた手紙を宇津木天馬に見せた。宇津木はちょっと意味がのみ込めないかたちで、しばらくぼんやりしていたが、やがて読んでゆくに従って急に興味にかられてきた様子だった。 「ほほう!」と彼もまた、さっき山野茂がもらしたと同じような溜息をもらしたが、急に生き生きとした目を上げて、 「これはおもしろい」と言った。「するとなんですね。あの白木静夫という少年、あれはどこかの大家の令嬢がこの世を忍ぶ仮の姿——とそういうことになりますね。これはおもしろい。これはおもしろい」  陽気な宇津木天馬はそう言ってひとりうれしがっている。 「まあね。この手紙でみるとそういうふうに受け取れるね、それで君に尋ねようと思っていたんだが、彼、どこか女らしいところがあった? 君は僕より多く彼に接近する機会があったのだから、何か思い当たるようなところがあるだろうと思うのだが……」 「そうですね」  宇津木天馬はしばらく考え込んでいたが、やがて何を思ったのか、急に顔を赤らめると、 「そうですね。そう言われればどこか変なところが……もっともそういうふうに考えるからかもしれませんけれど、ありましたよ。ほら、終わりのほうで、負傷した『俊夫』という少年を僕の役の中尉が抱き上げるところがあるでしょう。ご存じのとおり、あすこはどうもうまく行かなくて、何度も何度も撮り直しをやりましたね。あれなんか変なんです。僕がこう、彼の体に手を触れると、どういうものか、一瞬間相手が体を固くしてしまうんです。あのときには相手が女であろうなどとは夢にも考えたことはなかったんですが、その感じがどうも変なんで、思わず僕のほうでトチってしまうんですね。あれなんか、いまから考えると少々……」  宇津木天馬の言うように、そういう場合の記憶をたどってゆくと、なるほどと思われる点がそのほかにもいくらもあった。たとえば負傷した「俊夫」の役が、味方へ急をつげるために駆け着ける場合でも、監督がどんなに命令しても彼はある程度以上に肌《はだ》を表わすことを肯《がえ》んじなかった。また役が上がると、大部屋の連中は連中で、みな一つの風呂《ふろ》へ入って、扮装《ふんそう》を落として帰ることになっているのに、彼だけはいつも役の姿そのままで撮影所を出て行くのが常であった。みんなはそれを撮影所の空気に慣れきらない少年の初心《うぶ》なはにかみとのみ解釈していたのだが、いまから思えば、そんなところにももっと考えてみなければならぬ点がたくさんありそうに思われる。 「そうすると、この手紙の言うことはまんざら見当外れでもないことになってくるね」  山野茂はしかし、なぜかもう一度しげしげとその手紙を読み返していたが、しばらくするとふとそう感慨をもらした。 「見当違いて、どうしてどうして、これはなかなかおもしろい事件に違いありませんぜ。大家の令嬢が家出して、少年の姿になり、活動写真のエキストラに雇われる、なんてのは、どうしたって近代の探偵小説でさ。板村尾松に話してやれば喜んで、自分で探偵の任を引き受けるというかもしれませんぜ」 「ほんとうに……」  折から茶を入れて持って来た細君も、宇津木天馬に調子を合わせた。 「板村さんにはおにあいの仕事よ。それが侯爵さまかなんかの御令嬢だったら、おもしろいわね」  浪漫《ろうまん》的なことの好きな三人は、だからその日は一日中その話に花を咲かせていた。 [#中央揃え]*  しかしそのときは、そんなに熱心だった山野茂なり、宇津木天馬なりであったけれど、もともと気まぐれな彼らだったし、それにまた仕事のほうが忙しくなってもきたので、二人ともとうとう、その事件に対して積極的に働きかけるというような機会は持たずに過ごした。  撮影所というような世界では、日に日に新しい事件が生まれ、日に日に古い事件は忘れられてゆく。山野茂にしろ、宇津木天馬にしろ、しょせんはそういう世界に生きている人間だったので、同じことにいつまでもとらわれていることのできない性分にしたて上げられていた。  もっとも山野茂は、義務として鈴木とし女にはていねいな返事を書いておいた。彼は白木静夫についてなんら包みかくす必要を認めなかったので、ありのままのことを、そしてそれに宇津木天馬と語り合ったあの疑問の少々ばかりを、参考のために書き加えておいた。ところが不思議なことには、せっかくの彼の好意も報《むく》いられることなしに、付箋《ふせん》がついてもどって来たのである。あて名の番地に、鈴木としなどという女は住んでいなかったのである。  このことはちょっと山野茂を不思議がらせた。しかしそうしている間にも、次の製作が彼を追っかけて来る状態なので、そういつまでも不思議がったり、感心しているわけにはゆかなかった。彼らのうちで一番自分自身に時間を多く持ち得る脚色家の板村尾松だけは、しかし山野たちの話を聞くと、かなり積極的に活動してみたようであった。彼は以前から白木静夫という人物に十分の興味を持っていたし、前にも話したように、彼がふいと撮影所に姿を見せなくなったときなどは、自分から本所の叔母というのを探しに行ったほどだったから、この不思議な物語を聞き、不思議な手紙を見せられて以来、大いに好奇心を動かしたのは当然のことであった。  ところが、ときどき彼が山野茂の宅にもたらす報告というのは、彼のかなり好奇的な活動にもかかわらず、ことごとくそれが水泡《すいほう》に帰《き》してゆくにすぎなかった。本所の叔母というのは依然として雲をつかむような探ね者であったし、鈴木とし女のほうも一向手がかりがなかった。彼はその一方、最近数ヵ月間の新聞をひっくり返して、家出令嬢という記事を探して回ったが、そのうちにも白木静夫に一致しそうなのは一つとして見当たらなかった。  撮影所の連中に聞いて回っても、だれ一人として、かなり長い期間に渡っての撮影であったにもかかわらず、彼と口をきき合ったものはないらしかった。結局、撮影所において白木静夫を最も多く知っていたものは、山野茂と、宇津木天馬と、そして自分自身にほかならないことを発見したぐらいのものであった。当然一番熱心であった板村尾松も、あきらめるともなしにあきらめるよりほかにしようがなかった。 [#中央揃え]*  そうこうしているうちに三ヵ月ほど過ぎた。俳優の宇津木天馬は今度は久し振りに山野監督の手を離れて、ほかの監督のもとで、折から東京の××新聞に連載中の新聞小説を一本撮ることになった。山野茂はその間次の作品の準備という名目でしばらく静養することになっていた。  ロケーションの都合で塩原《しおばら》にしばらく逗留《とうりゆう》することになった宇津木天馬からは、東京にいる山野茂のもとへ毎日のように手紙だのはがきだのが舞い込んで来た。  ところがその六日目の朝のことである。  山野茂がいつものように九時ごろに床《とこ》を離れて、熱い紅茶をすすりながら、ふと卓上を見ると、かなり部厚《ぶあつ》な手紙が一本のっかっている。差し出し人の名を見るまでもなく、筆跡からしてそれは宇津木天馬からであることは一目でそれと知れた。 「はてな?」  山野茂は首をかしげながら、紅茶を下に置くとあわてて、その封を切った。元来宇津木天馬という男は、長い手紙の書けない男だった。それに毎日のように、はがきの便りをよこしている彼に、そんな長い手紙を必要とするような変わったことが起ころうとは思われなかった。山野茂はそれで、ちょっと不安な気持ちになりながら忙しく封を切ったのである。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]  前略  今朝《けさ》は実におもしろいものを見た。これは兄貴にもきっと興味があることと思うからさっそくこの手紙を書く次第。  ゆうべ書いたはがきの中に、同じ宿の美しい女客から思いがけなく見事な菓子を贈られたことを書いておいたがあれである。  実は美しい女客とは女中から聞いたまでのことで、僕自身彼女を見たわけではなかった。女中の言うのに相手のお客さまは決して名前を言って下さるなというので、それを言うことははばかるが、たいへん美しい女であるとの口上《こうじよう》。それ以上はなんといっても話さない。こちらからお礼に参上するといってもそれもよしてくれとのこと。  もっともこういうことはいままでのロケーションにもまったくなかった例でもないので、僕はそのままですましておいた。たぶん物好きな奥様か令嬢かが、悪名高いこの僕が同じ宿にいることを知って、ちょっとした好奇心から贈ってくれたものだとばかり思っていた。ところが今朝のことである。あいにく今日は朝から深い霧雨で、しかたなく撮影のほうは断念して一日宿でとぐろを巻くことになった。雨に降りこめられたロケーション地の宿のことは兄貴もよく御承知のはず。  僕はいささか疲労したものだから、宿の欄干《らんかん》にもたれてぼんやりと表を見ていた。見ると一台の自動車が着いて客を待っている様子。こんな雨にもかかわらず出発する客があるんだなと思いながら、なんの気なしに見ていると、大勢の番頭や女中たちに送られて出て来た女があった。彼女は自動車に乗る前に、ほんの偶然であったろうが、ふと僕のほうを見上げた。そのとたん二人の視線がカチリと合った。  兄貴、そのときの僕の驚きがどんなであったか、とても察することはできまい。あの女なのだ。いや、あの男、白木静夫なのだ。彼女は僕の顔を見るとあわてて自動車へ乗り込み、中からシェードを降ろしてしまったので、二度とその顔を見ることはできなかったが、僕の目にまちがいのないかぎりその女が白木静夫であることは断言してもいい。  僕はあとで、宿の女中にそれとなく聞いてみた。すると彼女は麹町《こうじまち》に住む山添伯爵《やまぞいはくしやく》の令嬢だとのこと、そして僕に菓子を贈ってくれたのもやっぱり彼女だったのだ。  兄貴、これで不思議は解決されたではないか。シンデレラの正体は伯爵の令嬢だったのだ。なんと世の中の不可思議にしておもしろいことよ。  詳《くわ》しくはお目にかかって万々。 [#ここで字下げ終わり] 「ほほう」山野茂はその手紙を読み終わると急いで細君を呼んだ。 「ナーニ?」洗い物をしていたらしい細君が、白いエプロンで手をふきながら出て来るのを見るといきなり、 「おい、これを読んでみろ!」とその手紙を渡した。 「まあ!」 「お前の想像がどうやら当たっていたらしいね」 「侯爵さまではなく伯爵さまだったのね。でも、どちらにしてもおもしろいわ」 「板村尾松に話してやるといい、喜ぶぜ」  だがしかし、彼らが、やって来たら驚かしてやろうと言っていた板村尾松は、それから三日目の夜、彼のほうから驚くべき報告を持ってやって来た。 「おい、見つけたぜ」  彼は部屋へ入って来るといきなりそう言った。 「なんだい、おい」  外国の映画の本を読んでいた山野茂は、それをパッタリと伏せると、やや興奮しているらしい板村尾松のほうを振り返った。 「なんだって、白木静夫さ」 「あら」  白木静夫という名を聞くと細君も隣の部屋から出て来た。 「板村さん、どこで?」 「どこって、あいつまったくいかさま[#「いかさま」に傍点]さ。ホラ、銀座裏に今度できたチンナモミという酒場《バー》があるだろ? あすこに出ているんだよ」 「あら、そんなこと……」  細君は夫のほうをちらりとながめた。「板村さん、それまちがいじゃない」 「まちがいなもんか。例の左の手にあるあざというのもたしかに見たよ」 「で、その人、なんと言って?」 「なに、それが僕の顔を見ると奥へ逃げ込んでしまって出て来ないのさ。だけど、確かだよ。白木静夫だった女に違いないさ」 「まあ、そんなはずはないわ」 「そんなはずがない? じゃ奥さん、あなた何か彼女のことについてご存じなんですか」 「ええ、ちょっと、あたしあなたがいらしたら驚かしてあげようと思ってこの間から待っていたのよ。あなた、あれどこにあって?」 「手紙かい? 僕の机の引き出しに入っているだろ」  細君はしばらく夫の引き出しの中をごとごとと探していたが、やがてそれを見つけると誇らしげに板村尾松の前へ差し出した。 「読んでごらんなさいな。これを……」  板村尾松は不思議そうにそれを受け取ったが、読んでゆくうちに眉《まゆ》をしかめた。しかし、間もなく読んでしまうと、プッと吹き出してしまった。 「これこそまちがいですよ。奥さん。こんなばかなことが……。これはあまり小説的すぎるよ」 「だって宇津木さんだって、あなたと同じくらいにこの事件には好奇心を持っていらっしゃるのよ。あなたのほうがまちがいか、それとも宇津木さんのほうがまちがいか、これはいますぐきめるわけにはいかないと思うわ。ねえ、あなた」  彼女はそう言って、夫の顔を振りあおいだ。すると、そのときまで、静かに本を読んでいた山野茂は、おもしろくもなさそうに、 「そうさ、どちらがまちがいか分からないと同時に、どちらも正しいのかもしれないぜ」と言った。 「あら、それはどういう意味なの?」 「なにさ。宇津木天馬のみた女も、板村君の見た女も同じ人間かもしれないということさ」 「え? それはどういう意味だい? じゃ、宇津木君が塩原でみた伯爵の令嬢が、東京へ帰って来てまた酒場《バー》へ出ているというのかい?」 「そうさ」 「おかしいね」  板村尾松は不審そうに、しかし意味ありげな相手のことばを味わうように首をかしげた。 「何もおかしくはないさ。ね、こういうことは考えられないかね。ここに、非常に退屈して、何かおもしろい冒険はないかと考えている女がある。それが男装をしてまんまとエキストラに雇われることができた。そして撮影所の連中をまんまとあざむきおおせた彼女が、これを種に何かも一つおもしろい冒険はないかと考えているところへ、同じように退屈している男にばったりと行き合わせる。その男というのは彼女がたった一本作った映画の監督で、そのときまで彼女が女であることを知らなかった。こいつはおもしろい。板村だの、宇津木天馬だのは君をまだ男だと思っているぜ。一つかついでやろうじゃないかというので」 「まあ!」まず第一に細君が目をみはった。 「何だって? じゃ、君かい? このつまらない物語の作者は……」  山野茂は急に難しい顔をした。 「そうさ。この前、『鎖の環』の試写の帰途、宇津木とさんざん銀座を飲んで回ったとき、チンナモミでふと彼女を発見したのさ。宇津木は酔っ払っていて少しも気がつかない。これはいい、というので、早速、鈴木とし女という怪しげな女の手紙をこしらえて、その場で僕あてに投函《とうかん》したのだ。しかし、おもしろくもないね。君たちが騒ぐのを見ても、この僕だけがトリックを知っていると思うと、ちょうど探偵小説の結末を一番に読んだようなものさ。むしろだまされているほうが幸福だよ」  そう言って山野茂はなまあくびをかみ殺していたが、 「それはそうと今夜、彼女、根岸鈴子というのだがね、彼女が来るはずになっているんだ。今度の僕の映画で相当重要な役をやってもらおうと思っているんだが、どうだろ」  山野茂はそう言って立ち上がると窓を開いて外をながめた。 [#改ページ]   寄《よ》せ木細工《ぎざいく》の家     一  これから私がお話ししようとするこの奇妙な物語は、いったいどこからどこまでが真実で、どこからどこまでが私の悪夢であるか、かくいう私自身にもよく分からないのです。何しろこの物語に関係している三人が三人とも、不慮の死をとげているので、彼らの口から事実の真相を聞くわけにはまいりません。勢いあとになって発見された、彼らの最期《さいご》の場面から推《お》して、こういうこともあったろうかと揣摩憶測《しまおくそく》するよりほかにしかたがないのです。それらの憶測のうち、最も正しいと思われる部分をつづって、私はここに一編の物語を組み立ててみる気になったのですが、それにしてもこの事件の起こったのはもう半年も以前のことです。それをいまごろになってどうして物語にして発表する気になったかと言えばほかでもありません。最近になって意外な方面において、この物語の説明に対して一縷《いちる》の光明を投げかけるような事件が起こったのです。というよりは、最近起こったこの事件のために、数ヵ月以前の、あの奇妙な事件の説明がついたというわけです。  さて、物語の都合上、最近に起こった事件というのからお話ししましょう。  諸君も御承知の××撮影所——これはあの撮影所の中で起こった事件なのです。  監督の葉山順三郎といえば、諸君もすでにご存じのとおり、××撮影所ばかりではなく、日本でも有数の監督として知られておりますが、その葉山監督が、ある夜|晩《おそ》くまでかかって、当時彼の作りかけていた「都会の歌」という映画の完成に急いでおりました。いったいこの映画は秋のシーズンのトップを切るために作られていた映画で、九月一日から全国の常設館においていっせいに封切りされることになっていました。ところがいろいろな思わぬ故障のために、その九月一日もあと一週間に迫っているというのに、撮影はまだ七分どおりしか進行していない、事務所からはせつかれるし、営業部のほうからはやたらに催促を食う、葉山監督はそれでやっきになっていました。  その晩撮影していたのはこの映画の主人公に当たる、さる富豪の令嬢の寝室の場面で、グラス・スタジオの中に組み立てられた洋風のセットの中央には、一台のぜいたくな寝台が置いてありました。その寝台の上に主人公の令嬢が横になっている。そこへ彼女に裏切られたむかしの恋人が復讐《ふくしゆう》のために忍び込んで来る。それをまた主人公が彼女一流のコケティッシュな手管《てくだ》でさんざん翻弄《ほんろう》するという筋で、この映画としては一番のやま[#「やま」に傍点]場なのです。主人公にはいうまでもなくこの撮影所第一の人気女優|美波綾子《みなみあやこ》が扮《ふん》することになっているのです。  葉山監督は彼一流の凝《こ》り性《しよう》から、この場面に使う寝台などもわざわざ横浜まで出向いて、ある古家具屋の店先から見つけてきたくらいでした。従って筋からいえば至って簡単な場面ですが、それがなかなか思うようにはかどりません。幾度も幾度も光線の具合やカメラの位置が置き換えられ、何度かの撮《と》り直しがあったのち、いよいよこれが最後という撮影が始まったのです。  時間はもう二時を過ぎていましたろうか。深夜の撮影所というものは一種|妖異《ようい》な感じがするものです。スタジオの中には、昼間作られたさまざまなセットが、そのままあちらにもこちらにも奇怪な形をして暗闇《くらやみ》の中に取り残されています。豪奢《ごうしや》な別荘風のセットがあるかと思うと、その隣には貧民窟《ひんみんくつ》の裏町がある。そうかと思うとすぐその背後には竹藪《たけやぶ》があり古井戸があり、安達《あだち》ヶ原《はら》の一つ家《や》のような破れ家があります。それがみな深い暗闇の中に沈んでいて、いまにもその中からもろもろの魑魅魍魎《ちみもうりよう》が飛び出して来そうに思われるのです。昼間の喧騒《けんそう》がひどいだけ、一層無気味でものすごい感じがするのでした。  そうした中にたった一ヵ所、葉山監督が撮影を続けている一画だけが浮き出したように明るい、それがちょうど、深い海底の中へ灯《ともしび》をさし込んだような光景にも見えるのでした。撮影が進行してくると、カメラを回すクランクの音と折々どなりつける監督の声が、天井へピンピン響くばかりで、セットを取り巻いている他の連中と言えば、みな唖《おし》のように黙りこくっています。だれもかれもが激しい労働と、スタジオの中の温気《うんき》とにぐったりとして、なかば知覚を失った態《てい》です。  こうした人々の心の間隙《かんげき》をつかんで、突然変な事件が持ち上がったのです。この事件を終始目撃していた一人の女優の話によると、それはまるで悪夢のような光景だったと言います。だれもかれもがそれに気がついていながらただ呆然《ぼうぜん》として手をつかねてながめているばかりでした。もっともそれは、詳しい筋を知らない彼女たちにとっては、当然そういうふうに場面が進行してゆくものと思っていたせい[#「せい」に傍点]もあるかもしれません。しかしすくなくともすべての筋をよくのみ込んでいたはずの葉山監督なり、主役の美波綾子なりまでが、それに対してなんら抵抗を試みなかったというのは、まことに不思議と言わねばなりません。抵抗どころか、二人ともまるで何者かに取りつかれたような格好で、呆然と身をすくめているばかりだったということです。  その変な事件というのはこうです。  監督の合図によってまず美波綾子が寝台の上に横たわりました。彼女はそこでいろんな恋人たちから来た手紙を一つ一つていねいに読んでは破り捨てるという簡単なお芝居をするだけなのですが、それでも凝り性の監督は五、六度撮り直しをしなければ承知できませんでした。そうしているときです。ふいに彼女が横になっている寝台の天蓋《てんがい》が少しずつ、少しずつ下りかけてきたのです。それはあまり静かな、あまり徐々な運動だったので、初めの間はだれ一人気のつく者はありませんでした。しかし、さすがに五寸となり、七寸となるに及んではだれの目にもつかずにはおきません。まず第一にカメラマンが気づきました。ついで監督の葉山順三郎の目にも映りました。当の本人美波綾子も一番最後に気がつきました。それでいて彼らは自分の目を信じることができなかったのです。そんなはずがない、そんなばかばかしいことが——彼らはそう思いながらかまわず撮影を続けていました。それほど、それは遅々《ちち》たる、そして静かな運動だったのです。しかし、まちがいもなく寝台の天蓋は、少しずつ、少しずつ、徐々に、正確なる速度をもって四|隅《すみ》の柱を滑り落ちているのです。何の物音も立てず、少しのきしりもなく、おもむろに美波綾子の体の上に押しかぶさってくるのでした。  のちになって、そのセットを取り巻いて、出を待っていた俳優が取り調べられたとき、彼はこんなことを陳述《ちんじゆつ》していました。 「実際それは悪夢のような光景でした。初めの間は私ども、わざとこういう仕掛けがしてあるのだ、これがこの映画の筋なのだ。そう思って感心して見ていたのです。しかし、間もなくそうでないことが分かりました。ところが不思議なことにはそうでないと分かってからというものは、私どもは一層身動きができなくなったのです。なんといいましょうか、不動の金縛《かなしば》りにでもかかったとでも言いましょうか。ただ固唾《かたず》をのんで立ちすくんでいるよりほかに、どうすることもできなかったのです」  そうです。この陳述にあるとおり、だれもかれもがこれを目撃しながら、黙って立ちすくんでいるばかりでした。さっきからみると天蓋はもう一尺以上も下がっている。美波綾子の体をのみ込んでしまうのも間もなくのことだ、監督はこの得体《えたい》の知れぬ光景に不思議な焦燥にかられました。カメラマンはやけくそになってクランクを回しています。寝台の上にいる当の本人美波綾子は、もうまるで芝居をすることも打ち忘れて、呆然と天井を見つめているばかりでした。  突然激しい恐怖の色が彼女の顔に浮かびました。何かしらわけの分からぬすすり泣きの声が彼女の咽喉《のど》をついてほとばしりました。これらの模様はすべてそのときのカメラの中におさめられたので、あとになって再び見ることができたのですが、そのときの彼女の恐怖の表情は、見る者をしてぞっ[#「ぞっ」に傍点]とさせるようなものでした。  彼女は激しく身もだえをし、そしてあわてて寝台から外へ飛び出そうとしたのです。しかしそのときにはすでに遅く、寝台と天蓋との間隙は、かろうじて彼女の片脚《かたあし》をはみ出させるほどの広さしかありませんでした。何かしら激しく彼女は叫びました。その声によって初めて不動の金縛りを解かれた連中は、あわてて寝台の周囲に駆け集まりました。しかし、これはいったいどんな仕掛けがしてあるのでしょう、大の男が数人よってこの天蓋を持ち上げようとしたのですが、少しでも上に上がることか、反対に、徐々に、正確なる速度をもって、寝台の外にはみ出した美波綾子の片脚に食い込んでゆくのでした。  まるで虫とりすみれにつかまった哀れな蠅《はえ》のように、彼女は激しく身もだえをしました。激しい苦痛のうめきと、救いを求める声が寝台の中からもれてきます。人々はすっかり度を失い、わけの分からぬことを口走りながら、ただただその周囲を右往左往するばかりでした。監督もカメラマンも助手も役者も、めいめいにこの厚い樫《かし》の蓋《ふた》を打ち破ろうと拳《こぶし》を固めてたたき、けるのでしたが、それはビクともすることではありません。刻一刻《こくいつこく》とこの恐ろしい天蓋は、はみ出した脚に食い込んでゆくのでした。そしてやがて、一種異様な、無気味な物音がどこからともなく聞こえてきました。それこそ美波綾子の脚の骨が砕ける音だったに違いないのです。 「ああ、ああ、ああ」  とうめきともすすり泣きともつかぬ声が寝台の中からもれてきます。そして、バリバリと樫の蓋を内側からかきむしる爪《つめ》の音が聞こえました。しかし、それとほとんど同時に、この恐ろしい虫とりすみれは、美しい犠牲者《ぎせいしや》を完全にのみ込んだまま、ピッタリとその口を閉じてしまったのでした。  それからの騒ぎはいまさらここに述べるまでもありますまい。いろいろな器具がこの厚い樫の天蓋を打ち破るために取り寄せられました。幸か不幸か美波綾子は脚の骨を砕かれた刹那《せつな》気絶したとみえて、寝台の中からはもはやなんの物音も聞こえませんでした。しかし、あらゆる努力も、ついにこの無気味な樫の蓋を打ち破ることはできなかったのです。およそ半時間も、そうしたむだな努力を続けていたことでしょうか。——するとなんという皮肉か、人々の暴力に対してはがんとして抵抗していたこの寝台の天蓋が、ふいに、またもや徐々に、正確なる速度をもって上がり始めたのです。人々は恐怖と驚愕《きようがく》の色をもってこの寝台を見つめていました。それはちょうど、獲物を完全に消化した虫とりすみれが、再びその魔手を開くように、静かに、音もなく口を開いていったのです。  そして人々は、その中に、気絶したまま窒息《ちつそく》した美波綾子のはかない屍《しかばね》を発見しなければなりませんでした。  それから後《のち》のことはくだくだしく述べますまい。ただこれだけのことを言っておきましょう。この恐ろしい寝台について、葉山監督はいろいろとその出所を調査したところが、意外にもそれが数ヵ月以前、あの不思議な死にざまをとげた洋画家|香取道之助《かとりみちのすけ》の家にあったものだということが分かりました。それが回り回って××撮影所へ売り込まれ、そしてここに初めて恐ろしい秘密をあばかれることになったのです。  では、いよいよ数ヵ月をさかのぼって、この物語の本題に入りましょうか。     二  香取道之助がどんな奇妙な性癖の持ち主であったか、それを私はくだくだしく述べることを避けようと思います。なぜならば、この物語を進めてゆく間に、読者諸君にもおのずから、彼の世の常ならぬ性質がお分かりになることと思うからです。  彼の両親は彼がまだ五つか六つの時分に相ついで亡くなったということです。しかし幸いなことには、彼には生涯《しようがい》相当のぜいたくをしてゆけるぐらいの財産と、両親にも優《まさ》るほどの忠実な一人の乳母《うば》がのこされていました。ですから香取道之助は何不自由なく、中学を出ると(この中学時代に彼が得たただ一人の友人がかく言う私だったのです)好きな絵を勉強したり、音楽に凝《こ》ってみたり、しかし、そのどれもが長くは続かないで、結局は何もしないで遊んで暮らしていました。そういう男の常として、彼もまた生活に対してはまったく無気力で、内部ではひどくわがままなくせに、外へ出るとまるで意気地がなく、従って友達というものをまったく持つことができないのでした。始終書斎に閉じこもっては、うつろな空想の世界に自分自身を見出してはたのしんでいるというふうで、しかもその空想というのが、世の常とはまったくかけはなれた、妙にゆがんだ荒唐無稽《こうとうむけい》なものばかりでした。  それでも、さすがに乳母の生きている間は、彼のこの奇妙な空想も、単に空想にとどまっているのみで、しごく平穏無事だったのですが、この乳母が亡くなって、だれ一人彼を制肘《せいちゆう》する者がいなくなったとなると、勃然《ぼつぜん》として彼の荒唐無稽な空想は実際にまで移されてきたのです。私が初めてこれを知ったのは昨年の秋のことだったと思います。  かなり長い間彼と交際を断っていた私は、ある日思いがけなくも彼からの手紙に接したのです。それによると彼はいま小石川の久世山《くぜやま》に新しい家を建てたから、ぜひ一度遊びに来てくれというのでした。彼が久世山に新しい家を建築中であることは、私もほのかに聞き知っていました。しかしそれが何時竣工《いつしゆんこう》したのやら、何時彼がそこに移り住んだことやら、私は少しも知らなかったのです。思うに私自身も、こののろわれた男になるべく近寄らぬように警戒していたとみえます。しかし、いまこうして彼の手紙を見ると、急にまた彼が不憫《ふびん》に思われて、ほかに友達とてはない男のことだから、どんなにさびしがっていることだろうと、私もつい出向いて行く気になったのです。  しかし、ああ、香取道之助のあの新しい家、それはなんという奇妙な建物だったでしょうか。それはちょうど早稲田《わせだ》から牛込界隈《うしごめかいわい》を一目で見下ろすことのできる高台の突端に、一軒だけぽつねんと離れて建っているのですが、遠くから見てもそれがなかなか世の常ならぬ建物であることがうなずけました。まるで真四角な木の箱を置いたような建物で、奇妙なことには窓というものがどこにも見当たらないのです。  江戸川から小日向台町《こびなただいまち》のほうへ登って行くあの坂を登り切ったところに、かなり大きな石の門があって、そこに香取道之助という表札が見えました。私はそれを入ると、建物の方へ歩いて行ったのですが、ところが不思議は窓がないというだけにとどまらず、第一どこにも玄関らしい入り口がないのです。私は二、三度この四角な建物の周囲を歩いて回ったのですが、ついに入り口らしいものを発見することができませんでした。四方とも壁一面が、ちょうどつづれの錦《にしき》のように、大小さまざまな木材をもって縦横無尽《じゆうおうむじん》につらねてあって、そのどこにも一分のすきも見出すことができないのでした。私は途方《とほう》に暮れながら、もう一度表のほうへ回りました。するとそのときふと目についたのですが、表門から入って来て、普通ならば玄関に当たるところに、大きな銅鑼《どら》が一つかかっています。なるほど、これをたたけというのだな——私は相変わらずの香取道之助らしい趣味に苦笑しながらその銅鑼をたたきました。と、その音が通じたものか、奥のほうから床《ゆか》を踏むスリッパの音が聞こえてきましたが、間もなくそれが私のすぐ目の前で止まりました。疑いもなく内部から私のために入り口を開いてくれようとしているのに違いないのです。それにしても、この奇妙な、まるで箱のような建物のどこが開くのか、私は多大の好奇心をもって目の前の壁を見守っていました。するとちょうど鳩時計《はとどけい》の鎖《くさり》を巻くような音がキリキリと内部から聞こえてきましたが、やがて鴨居《かもい》の辺に当たる位置の板がするすると水平に動いたかと思うと、ついでそれを支えていた柱がきりきりと上のほうへ動きました。それに続いて二、三の板が、あるいは水平に、あるいは垂直に動きましたが、やがて、そこにポッカリと洞穴《ほらあな》のような入り口が開いたのです。手っ取り早くいえば、これは子供たちがよくもてあそんでいる箱根細工、あれを開くような仕掛けがこの建物にほどこしてあると思われるのです。私はしばらくあきれ返って、この気まぐれな仕掛けをながめていました。するとそのとき、扉《とびら》の中から「いらっしゃいまし」という声が聞こえました。その声に驚いて見ると、そこに二十二、三の美しい女が立っているのです。 「阪部《さかべ》さんでいらっしゃいましょう」  女は私が名前を言わない前に、さも人懐かしそうな調子で会釈《えしやく》しました。 「ああ、僕、阪部です。香取君はいますか」 「はい、先ほどからお待ちしています。さあ、どうぞお入り下さいまし」  そう言われて私は腰をかがめるようにして中へ入りました。ところが内部へ入ってみると、外部から想像したとはうって変わって、そこには普通の玄関があり、その奥には長い廊下が見えました。それに窓というものが一つもないにもかかわらず、内部は不思議なほど明るいのです。ただ変わっているのは、部屋と部屋とを隔《へだ》てている壁ですが、これが例によって、ことごとく箱根細工式の寄《よ》せ木《ぎ》細工でこしらえてあるのでした。そしてここにも扉というものがどこにも見出すことができないのです。  女はとある部屋の前へ立ち止まると、軽く壁の上をたたきました。 「だれ?」  中から聞こえてきたのはまぎれもなく香取道之助の声です。 「阪部さんがいらっしゃいました」  するとまたしても先ほどのような不思議な仕掛けをもって、私たちの眼前にポッカリと洞穴のような扉が開いたのです。 「どうぞ」  案内をしてきた女はあでやかな目で、意味ありげに私の顔を見上げると、そのままばたばたと廊下を向こうのほうへ去って行きます。そのうしろを見送っておいて私は香取道之助の部屋というのへ入って行ったのです。  それはまあなんという奇妙な部屋だったでしょうか。広さにしてちょうど畳二十畳敷きくらいの部屋なのですが、天井と言わず床と言わず、四方の壁にいたるまで、そのすべてが、ことごとく寄せ木細工でできているのです。そこには窓というものが一つもなく、おまけに私が入ってしまうと、またしてもキリキリと時計の鎖を巻くような音を立てて、背後の扉がピッタリと閉まってしまったのです。そして私たちはもはや完全に、一つの箱の中に閉じこめられたのです。 「よく来たね」  香取道之助は呆気《あつけ》にとられている私の顔を見ながら、むっつりとそう言いました。 「どうも大変な家だね」 「ウム」  私はがらんとした部屋の中を見回しました。見ると部屋の一隅《ひとすみ》には、この部屋にしてもまだ大きすぎるくらいの寝台が一つ据《す》えてあります。それは中世期の宮殿などでよく用いられた、あのばかばかしいほど立派な寝台で、複雑な彫刻をした樫《かし》の天蓋《てんがい》からは、重い緋色《ひいろ》のカーテンがすっぽりとかかっていました。 「どうだね、この寝台は?」  香取道之助は私のあきれ返った顔を見ながら、なぜかにやりと笑いながらそう言うのです。しかし、そのとき私は、この寝台よりも、もう一つ奇妙なものをこの部屋の中に見つけていたのです。というのは、寝台を置いてある壁とは反対の側の壁に、なんと形容していいか、大小無数の、さまざまな面が一杯にかけつらねてあるのでした。香取道之助がいつから面などに興味を持ち出したのか私にもよく分かりませんが、そこには世界中のありとあらゆる面が集めてあるのです。お能《のう》のさまざまな面をはじめとして、張子《はりこ》のおかめ[#「おかめ」に傍点]、ひょっとこ[#「ひょっとこ」に傍点]、般若《はんにや》、そうかと思うとピエロだの、朝鮮の道祖神《どうそじん》に似たものすごい面もあります。それがさまざまな隈取《くまど》りの中にさまざまな表情をして、この奇妙な部屋の中をのぞいているのです。場所が場所だけに一種異様な寒さを私は感じました。ちょっと目をそらした瞬間など、無数の首が部屋の中をのぞき込んでいるような錯覚に襲《おそ》われます。面だけが離れて壁にかかっているのではなく、その背後にはおのおの完全な体が続いているのではないかとも思われるのでした。私はなんとはなしに一種の鬼気《きき》を感じ、それと同時に、名状《めいじよう》しがたい焦燥にとらわれたものです。 「君は相変わらず変なことばかりたのしんでいるんだね」  やがて私たちが向かい合って腰を下ろしたとき、私は相手の顔をまじまじと見守りながらそう口を切りました。 「変なこと? この面のことかい?」 「面といい、この家といい、それにこの寝台にしてもよほど妙なものじゃないか」 「そう、君にはそう思われるかね」  そう言いながら香取道之助はじっと私の目の中をのぞき込んでいましたが、何を思ったものかつと立ち上がりました。 「なるほど、君には妙に見えるかもしれないね。しかしこの建物はともかく、お面と寝台とはそうでたらめな僕の趣味じゃないのだよ。でたらめの影に隠れて、僕はある目的のためにこれを集めたのだ」  彼はそういいながら、部屋の中を歩き回っていましたが、突然つと立ち止まると、ハッとした様子でじっときき耳を立てていました。 「目的? ほう、じゃこれらのへんてこなものに何か意味があるというのかね」 「あるとも」  彼は再び歩き始めましたが、 「君はさっきの女を見たかい?」  と突然別のことを尋ねました。 「うん、見たよ。いま君に聞こうと思っていたのだが、ありゃあ君のマダムかね。なかなか美人じゃないか」 「うん、俺《おれ》の女房だ。俺はいまあいつを殺すことを計画しているのだよ」  私はなぜか、ふいに胸を鋭《するど》いものでえぐられたような気がしました。香取道之助は立ち止まって、じっと刺すように私の顔をながめました。が、やがて頬《ほお》の筋肉をピクピクと痙攣《けいれん》させると、突然|咽喉《のど》の奥のほうで低い笑い声をあげました。 「何も心配することはないよ。僕は別に気が違っているのじゃないのだから」  私はそれに一言も答えずに、相変わらず彼の落ち着きのない様子を見守っていました。気が違っていないという彼のことばをそのまま信用することができるであろうか。いや、いや、それは自分はいま気が違いかけているという別の言いかたではなかろうか。 「いま僕はなんと言ったっけな、女房を殺すつもりだと言ったな。君はそれを信じない、いや、あるいは僕を気違いだと思っている、しかし、僕が気違いでもなければ、でたらめを言っているのでもない証拠を君に見せてやろうか。なぜ僕が女房を殺す気になったか、なぜ殺さなければならないか、その証拠をね」  香取道之助はうつろな声音《こわね》でそう言うと、ふいにさきほど彼が腰を下ろしていた椅子《いす》を取り上げました。私はそれを見て危うく声をたてようとしたところです。いまにも彼がその椅子を振り上げて襲いかかってくるのではなかろうか、私は激しい恐怖にかられたのです。この箱のような一室で、気違いと二人で差し向かいでいることの危険さに、私は心臓の冷たくなるような恐怖を感じました。  しかし、幸いそうした乱暴をするでもなく、彼は椅子を、例の面の一杯かけつらねてある壁のそばまで持って行くと、その上に上がって無数の面の中からピエロの面を一つ取り外しました。見るとその面の背後の壁には、楕円形《だえんけい》の小さい孔《あな》が開いているのです。 「君、この孔が何を意味するか知っているかね。僕はね、向こう側の部屋から、この孔に顔を出して毎晩毎晩この部屋の中をのぞき込んでいるのだ。分かるかね、ここにかかっている無数の面は、つまりその僕の顔を隠すためのカモフラージュみたいなものなんだ。あいつは日ごろ見慣れた面の中から、ただ一つ、本物の俺の顔がのぞいているとは知らないで、夜毎《よごと》いろんなヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽのだよ。俺はもう三月にわたってあの女のヽヽヽヽヽヽを、あますところなくこの孔から見ていた。見てやった。亭主《ていしゆ》の鼻の下で、あの女は思う限りの、ヽヽヽヽヽヽ見せてくれたのだ。ね、ね、分かったかね。だから俺はあの女を殺さなければいられないのだ」  そう言って香取道之助は、いまや疑いもなく気違いの笑いをもって高らかに笑ったのでした。     三  香取道之助の妻が、彼が言ったように果たしてそうした不貞な女であったかどうか、私にはどうも疑わしいように思われます。それは彼一流の妄想《もうそう》が、いつの間にやらそうした小説の筋を頭の中ではっきり作り上げていたのではありますまいか。第一、あの面の中から首だけ出して、妻の寝室をのぞいているということからして、言おうようなきあさましい、そして気違いじみた所業ではありますまいか。  しかし妄想患者の常として、いったんそう信じ込んだが最後、もはやそれは一つの明瞭《めいりよう》なる事実となってしまうのです。それはいかなる事実よりもかえって彼には強く、そして動かしがたいものなのです。  彼はついに哀れな妻を殺害することに決心したのです。そしてあらかじめ用意していたあの恐ろしい死の寝台に、その夜初めて妻を殺害すべきからくり[#「からくり」に傍点]を仕掛けてしまいました。 「俺はちょっと外出してくるよ。今夜はたぶん帰らないかもしれない」  香取道之助はそう言い残して、久世山の寄せ木細工の家を出て行きました。しかし、決してほんとうに出て行ったのではなく、いつも妻をあざむいてあのあさましいのぞきの所業をするときと同じように家の付近に隠れていたのです。そしてほどよい折をみはからって、裏口の、だれも知らない入り口からこっそりと妻の寝室の隣へ忍び込みました。のちになって分かったことですが、この奇妙な建物は、一見どこにも入り口がないかのごとく見えて、事実はいたるところが出入り口になっていたのです。なるほど、そう言えばどろぼうに対してこれぐらい安全な建物はないと言っても差し支えないでしょう。このさまざまな木材のうち、どれを最初に動かすべきか、それを知らないでは、どんな人間にもこの家へ入ることはできないのです。それと反対に、その鍵《キー》を知っている人間なら、家の周囲のいたる所が出入り口ともなるわけでした。  さて妻の寝室の隣へ忍び込んだ香取道之助は、例の面の背後へ回ると、そっと椅子を引きよせてその上にはい上がりました。そしてあのピエロの面の背後に開いている小さい孔から手を差し出すと、そっと面を取り外し、そしてその面の代わりに自分の顔を突き出しました。それは小さい孔で、かろうじて首だけが入るぐらいなのです。彼は椅子の上に爪立《つまだ》って、じっと妻の寝台を見下ろしていました。部屋の中は真っ暗で、向こうのほうにある寝台がただおぼろ気に見えるばかりです。  そうして、どのぐらい待っていたでしょうか。やがて扉を開いて女が一人部屋の中へ入って来ました。彼女は寝台の枕元《まくらもと》にある電灯の灯《ひ》をつけ、それから部屋の中をしばらく片づけていましたが、ふと枕元にある洋酒の瓶《びん》を見つけると、急に気がついたようにそれをコップに注《つ》いで一口にぐっとあおりました。寝《しん》につく前に一杯のぶどう酒をあおることが彼の妻の毎晩の習慣になっているのでした。それを知っている香取道之助は、ですから、いま彼女がそれを飲み干したところをみると、思わず咽喉の奥のほうでかすかな、低い声をあげました。いまや彼女は完全に、彼の仕掛けたあの恐ろしい虫とりすみれの餌食《えじき》になろうとしているのです。ぶどう酒の中には強い麻酔薬《ますいやく》が仕掛けてある。そしてあの寝台は人間一人の重量がかかれば、何分かののちに自然と恐るべき作用をするように仕掛けられているのです。  果たしてぶどう酒を飲み干した彼女は、二、三歩よろよろとよろめきました。そして驚いたような様子できょろきょろと部屋の中を見回していましたが、やがて耐えがたくなったものでしょうが、バッタリと寝台の中へ転ぶようにして打ち伏したのです。  これを見ている香取道之助の形相《ぎようそう》は、もはや悪魔のほかの何者でもありませんでした。彼は咽喉を鳴らし、椅子をけって歓喜に身を打ちふるわせていました。すべてが計画どおりです。いまあの恐ろしい寝台の天蓋は、徐々に、正確なる速度をもって下りつつあるのではありませんか。そして妻は何事も知らずに打ち伏している。この恐ろしい虫とりすみれは、のみ込んだ餌食が完全に窒息《ちつそく》してしまうまで、決して口を開こうとはしないのです。そして、適当な時間の経過ののち、再び徐々に元へ返ってゆく。どこにも証拠というものは残らない。——  やがて厚い樫の天蓋はすっぽりと寝台を包んでしまいました。そして間もなく、中から激しく寝返りを打つ音と、バリバリと天蓋の内部をかきむしる音とが聞こえてきました。これを聞くと香取道之助は耐えがたい喜びのために、大声をあげて笑いました。 「やったぞ、やったぞ、やっつけたぞ!」  彼はそう叫びながらバタバタと両手で壁をたたき、足を踏み鳴らしました。そうすることが、いまに自分を恐ろしい死地へおとしいれることなど、少しも彼は気がついていないのでした。  すべてが呆気《あつけ》ないほど簡単に片づきました。断末魔《だんまつま》のうめきとも思われる、すすり泣くような声が一息長く続いたかと思うと、あとはもう死の静けさでした。そして万事の使命を果たした天蓋は、再び音もなく、四隅の柱を伝って規則正しく上がってゆくのです。 「やったぞ、やったぞ、やっつけたぞ!」  香取道之助はそこに現われた妻の乱れた屍《しかばね》を見ると、思わず歯をかみならし、激しく両手を振りながら叫びました。  しかし、そのときのことです。突然そこに、世にも奇妙な現象が起こりました。というのはほかでもありません。先刻の妻が入って来た入り口から、またしても彼の妻が入って来たではありませんか。ああ、これはなんということでしょう。夢ではなかろうか、気が狂ったのではなかろうか、しかし、それはまちがいもなく彼の妻なのです。では、あの寝台の上に横になっているのは——そのとき彼の妻は何か口の中でぶつぶつ言いながら室内の電気をつけました。それで初めて分かりました。寝台の上にいるのは妻ではなく、女中でした!  言いようのない驚愕と憤怒《ふんぬ》と失望との叫びが、ごっちゃになって彼の口をついて出ました。彼は足を踏み鳴らし、椅子をけって、あらゆる呪咀《じゆそ》のことばを妻に向かって投げかけました。もしもそこに壁がなかったら、彼は必ず妻に向かってつかみかかり、改めて彼女をくびり殺したに違いないのです。しかし、運命はなんという皮肉でしょう。彼が地団太《じだんだ》を踏んでくやしがったはずみに、彼の体を支えていた椅子はうしろへ跳《は》ねとばされてしまいました。そしてあの小さい孔から首だけ出していた香取道之助は、妻をくびり殺す代わりに、妻に向かって激しい呪咀を口汚く投げつけながら、この孔のためにくびり殺されてしまったのでした。  この奇妙な物語はこれで終わるのです。  しかし最後に一言つけ加えさせていただきましょう。あの××撮影所で非業《ひごう》な死をとげた美波綾子、彼女こそ香取道之助のかつての妻だったのです。これを思えば因縁の恐ろしさに身ぶるいを禁ずることができません。彼女は夫があの無気味な最後をとげた当時、警察で厳しい取り調べを受けたとき、あくまでも知らないと言いはったとおり、この恐ろしい寝台の秘密については、少しも知るところがなかったものと見えます。 「私が部屋へ入って行きますと、私の寝台に女中が寝ているのです。それを起こそうとしますと、突然、部屋の向こうのほうから夫の声が聞こえてきました。最初のうちそれがどこから聞こえてくるのか、私には少しも見当がつきませんでした。そしてやっと気がついたときにはもう遅かったのです。夫はあの面の中から首だけ出して——」  しかし読者諸君よ。そのとき彼女は夫を救おうとして壁の背後へ回りはしなかったでしょうか。そして、いざとなって、急に気が変わったのではありますまいか。利口な彼女は、夫のその場の様子から、彼の秘密の一端をさとったに違いありません。女らしい憤怒と復讐《ふくしゆう》——それに夫の足の下へ椅子を持って行かなくても、だれに分かるという気づかいはないのです。どうして彼女が断末魔の苦しみにもがいている夫の足を引っ張らなかったと言えましょう。 [#改ページ]   舜吉《しゆんきち》の綱渡り     一  女はとうとう舜吉のもとから離れて行った。 「さようなら。あたしもやっぱり、キッと美しい靴《くつ》をはいて、お芝居へ行ったり、遊園地へ行ったり、金ピカの馬車に乗って公園を散歩したりしたくなったの。幸い今度来た行政官が、あたしにそんなことをさせてくれるってから、あたしあの人のところへ行くつもりよ。じゃ、さようなら。今日から道で会ってもあか[#「あか」に傍点]の他人よ」  彼女はそう言うと、シングルカットの頭を振りながら、さっさと貧しい舜吉のアパートを立ち去った。  そんなことになるのは前から分かっていたことだけれど、さてはっきりと女からそう宣言されてみると、舜吉は急に世の中が真っ暗になってゆくのを感じた。女の踵《かかと》の高い靴の音が、廊下の端に消えて行ったとき、舜吉は取り返しのつかぬ空虚さを胸の中に感じた。彼は長いこと同じ場所に立ちつくしていたが、やがて、なんということなしに窓を開いて、溜息《ためいき》をもらした。  五月の輝かしく、生暖かい風が、いっそものなやましく舜吉の魂をくすぐった。彼はしばらく窒息《ちつそく》しそうな胸を開いて、むさぼるようにその空気を吸い込んでいたが、やがて、深い絶望のうめきをあげると、どっかりと椅子《いす》の中にくずおれた。すると胸悪くも、脚《あし》の壊れかかった椅子は、邪慳《じやけん》な悲鳴をあげたかと思うと、無慈悲にも舜吉の体をまり[#「まり」に傍点]のように床の上へ投げ出してしまったのだ。  舜吉はすっかり気を悪くして、床から起き上がると、ズボンの埃《ほこり》を払いながら、チェッ! と口の中で舌打ちをした。すると、その拍子にいま女の置いて行った指輪が卓子《テーブル》の上できらりと光るのを見た。  なるほど、こんなガラス玉の指輪なんかよりほんとうのダイヤモンドの入った指輪のほうがどんなによいか分からない。自分だってそう思う。従って女が自分にこの贋《にせ》ダイヤの指輪を返して、本物のダイヤモンドの指輪をくれる男のほうへ走るのは無理もないことだ。しかし、愛情というものはこんなものだろうか。愛情の真偽《しんぎ》もやはり彼らの与える指輪のダイヤモンドの真偽と正比例するものだろうか。ばかな! そんなばかな話があってたまるもんか! もしそうだったとすれば、この町では、だれもあの豚のような行政官以上の愛情を持つわけにはゆかなくなるではないか。  舜吉はその指輪を手に取り上げると、しばらくいまいましげにながめていたが、なんと思ったか、それをポケットに突っ込んだ。そして帽子を手に取ると急いで部屋を出て行った。外は輝かしい五月の空で、空気がビロードのように濡《ぬ》れて光っていた。アスファルトが白く輝いて、突然暗いアパートの一室から出て来たものにとっては、頭がくらくらするくらいだった。  無論道の上下を見回したけれど、女の姿はもはやどこにも見当たらなかった。そこで舜吉は長い髪の毛を左の手でなで上げると、帽子をていねいにかぶって、両手をポケットに突っ込むと、さてそろそろと歩きだした。  街は恋人同志が手をたずさえて歩くのに最もふさわしい時候だった。昨日までは舜吉も彼らの仲間だったのだ。いや、彼等の中でも、一番幸福な一対《いつつい》だったかもしれない。しかし、今日はもう、彼らと肩を並べて歩く資格さえないように思われる。幸福な男女たちは、行きずりにみんな舜吉を振り返った。そして、  ——おや、君のかわいいお連れはどうしたの?  と尋ねたげなまなざしを投げて行った。  舜吉は段々|憂鬱《ゆううつ》になっていった。彼は無鉄砲に街へ飛び出して来たことを後悔さえした。彼のような意気地のない男は、この輝かしい恋人たちの街を歩く権利もないのだそうだ。主人の家を追われた野良犬《のらいぬ》が、どこかの縁の下で小さくなって、楽しげに戯《たわむ》れている仲間の様子を、物欲しそうにながめていると同じように、あの貧しいアパートにうずくまっているべきはずだった。  舜吉は黙々として人のいない砂浜のほうへ歩いて行った。  そこは幸福な男女たちが多く出かける、もう一つの砂浜と、遠く砂丘によって隔《へだ》てられていた。従って昼日中《ひるひなか》こんな砂浜へ出かけて来る者はだれ一人いない。目をあげると、向こうの砂浜には、種々な奇妙な形をした建物が、まるで玩具《がんぐ》の箱をぶちまけたように散らばっている。そして、その一番高い柱には、赤だの青だのの旗がひらひらと風に美しくひらめいていた。  舜吉もよく女とその砂浜のほうへ出かけたことがある。だから彼は、その大きな柱の下に、大きく、   Sea-side Pleasure Ground  と書いてあることを知っていた。  舜吉は立ったままで靴で砂浜に穴を掘った。そしてその中にガラス玉の指輪を投げ込むと、ていねいに土をかぶせた。彼はそこへ、 (わが恋の墓場)  とでも書いて立てておこうかと思ったが、そんなことをしなくても、夕方になれば満潮が何もかも解決してくれるだろうと思ったのでよした。  指輪を埋めてしまうと彼は少しばかり心が軽くなったのを感じた。するとそのはずみに潮風の加減か、あの「海岸遊園地」の陽気などよめきが聞こえてきた。彼はふとそのほうへ誘惑を感じた。どうせひとりぽっちで、こんなさびしい砂浜にいたって始まらないことだ。あの遊園地は、幸福な男女たちを楽しましてくれると同じように、ひとりぽっちのさびしい若者をも慰めてくれるかも知れないのだ。  そこで舜吉はどんどんと砂丘を下りると、もう一つのほうの砂浜のほうへ歩いて行った。近づくに従って、陽気なサキソフォーンだの、トロンボーンの音が間近に聞こえてきた。すると舜吉は急に血が湧《わ》き立ってくるのを感じた。そしていつまでも悲しんでいなくてもいいような幸福が、その遊園地の中に待ちかまえているような気がしてきた。間もなく遊園地のいろんな遊戯場が、彼の眼前に迫ってきた。そして金ピカの制服を身につけた男が、大きな声で客を呼んでいる入り口の側までやって来た。  が、そのときである。彼のいちばん見たくないもの、いちばん見てはならないものが、その入り口の前に待っていたのである。  いましもその入り口の前に、金の縁とりをした黒塗りの二頭馬車が着いた。そして人々の歓呼の声に迎えられながら、太っちょで赤ら顔の行政官が馬車から降り立った。無論彼一人ではなかった。昨日まで舜吉の恋人だった女が、輝かしく頬《ほお》を染めながら、その行政官に手を取られて降りて来た。  舜吉は思わず息をのみ込みながらその女に目を見張った。それは決して、嫉妬《しつと》や腹立たしさからではなかった。女があまり奇麗だったからである。彼女はもはや昨日までの彼女ではなかった。緑色のドレスの襟《えり》に、白いボアを巻きつけてその上に、桃色の帽子をちょっと斜めにかぶっているところは、どうしても、舜吉などと手をたずさえて歩くのにふさわしくないほど美しかった。おまけに、女が手袋を脱いだとき、舜吉はその奇麗な指に、大きなダイヤモンドがきらりと光るのを見た。 「なるほど」  と舜吉はうなずいた。 「ダイヤモンドの真偽が男の愛情の真偽と正比例しないことは確かだ。しかし、女というものは、やはり本物のダイヤモンドを指にはめているほうが美しくもあるし、それがほんとうのことでもある」  しかし、そのとき舜吉の背後のほうでだれかが声をかけた。 「お前さん何を感心しているの。とうとうお前さんの恋人もあの太っちょの行政官にとられてしまったじゃないか。お前さんくやしくはないのかい? あの行政官のやつ、これで他人の恋人を横取りにしたのは三十度目だよ」  舜吉は急に腹立たしくなった。で、そんなことを言ったのがだれだか、見定めもせずに、その遊園地の入り口から離れた。 「なるほど」  舜吉は歩きながら重苦しくつぶやいた。 「いまだれかが言ったように、これはくやしがらなければいけないことかもしれない。しかし、なぜいけないのだろう。自分だって、女がガラス玉の指輪をはめているより、本物のダイヤの指輪をはめているほうが美しいと思っているのだ。だから、あの行政官が本物のダイヤで女を釣《つ》ったといって少しも悪いことではないではないか。あの男はこうして一人ずつ女を美しくしている。何も悪いことではない。そうだ、悪いことというのは、自分があの行政官より立派なダイヤの指輪を持ち合わさなかったということだ。つまり自分の貧乏に対してくやしがらなければいけないのだ」  舜吉はふと足を止めた。妙にけばけばとした色彩が彼の目に映ったからである。気がつくと彼は、街の公会堂の前に立っていた。けばけばしい色彩というのは、その公会堂の壁に貼《は》った大きなポスターだった。舜吉はゆっくりと煙草《たばこ》を取り出すと、それに火をつけてそのポスターを読み始めた。     世界的大ヒポドローム  一、ジェロニモ氏の決死的空中離れ業  二、花形美人数十名の花のごとき大舞踏  三、馬匹数十頭。象七頭。獅子《しし》八頭  四、…………  五、…………     明日より当公会堂において公演  舜吉は煙草を一本|喫《す》ってしまうまで、ゆっくりとこのポスターの隅《すみ》から隅までながめていた。そこには一人の曲芸師が綱渡りをしているところが書いてあった。そしてその下に横文字で、世界的冒険家ジェロニモ氏と大きく書いてあった。     二  その翌日、ヒポドロームは予告どおり正午から開かれた。そしてそれはすっかり街中の人気をさらってしまった。だれも彼も公会堂へと足を急がせた。おかげで街中が空っぽになったばかりでなく、いままで人気を集めていた海岸遊園地はすっかりそのほうに客をとられてしまった。だれももう、あの古くさい遊園地など見向きもしなかった。そしてみんな美しく着飾っては公会堂のほうへ急いだ。中でも、ジェロニモ氏の決死的空中離れ業は、人々の賞讃の的《まと》となった。彼が数十丈の高さに張った綱の上に立ったとき、若い女たちは胸をとどろかせてその勇姿に見とれていた。ジェロニモ氏は、その綱の上で、さまざまな危険な離れ業を見せた。なるほど、それはポスターの文句どおり、決死的な冒険に違いなかった。いかに地上に網《あみ》が張られているとはいえ、だれしも、いままでそんな思い切った曲芸を演じる者はなかっただろうと思われた。  舜吉も毎日のようにこのヒポドロームを見に出かけた。彼は貧しくて高価な代金は払えなかったので、いつも人々のいちばんうしろから見ていなければならなかった。そして、彼を裏切ったあの恋人は、行政官とともに、いつでもいちばん正面のところに陣取っていた。従って彼女の一挙手一投足は、曲芸と同じように、はっきりと舜吉の目をとらえることができた。  舜吉は彼女が、いかにこのジェロニモ氏の曲芸に心を奪われているかを知ることができた。ジェロニモ氏が綱の上に立ったとき、彼女も息をつめてそれを見ていた。ジェロニモ氏が綱の上で危険な離れ業を演ずるとき、彼女の魂が綱と同じように張り切っていることを舜吉は見た。そして、見事に曲芸を演じ終わったとき、いちばん最初に拍手を送るのはいつも彼女で、そしていちばん最後まで拍手の手を止めないのも彼女だった。そのために、傍に座っている行政官が、いつも顔をしかめていることまで、舜吉は見てとることができた。  舜吉は初めて、ダイヤモンド以外にも、女の魂をとらえるもののあることを知った。曲芸だ。綱渡りだ。そして決死的冒険だ。  二、三日舜吉はアパートに閉じこもってそのことを考えていた。彼はともすれば、ジェロニモ氏の曲芸に恍惚《こうこつ》としている女の顔を思い出した。すると舜吉は、なんとなく幸福に胸がふくれ上がってくるのを感じた。  ある日、何を思ったのか彼は、もうこのごろではだれも足を向けなくなった遊園地へ出かけた。そしてそこの事務所の前に立って支配人に面会を求めた。支配人は青い顔をして、溜息《ためいき》とともに舜吉を迎えた。彼はもうヒポドロームのほうへすっかり客を取られてしまったので、いまでは破産に瀕《ひん》しているのだった。自殺するか、この街を逃げ出すかしなければ、法がつかないような破目《はめ》になっていた。舜吉は部屋へ入って行ったとき、そこのテーブルの上に、いままで磨《みが》かれていたらしいピストルの置いてあるのを見た。これは舜吉にとっては思うつぼであった。 「あなたは自殺しようとしていらっしゃるのですね」  舜吉は支配人の顔を見た。支配人は悲しげに肩をゆすったまま黙っていた。 「あなたはなぜ、この遊園地をむかしのように繁盛《はんじよう》させようとなさらないのです」 「どうしてそんなことができるというのだ」  支配人は拳《こぶし》を固めた。 「向こうにはあんなど偉いやつがいる。それに引きかえて、俺《わし》のほうは意気地なしばかりそろっているのだ」 「あなたのおっしゃるのは、あのジェロニモ氏のことですね」 「そう、あのジェロニモ! あいつは鬼神じゃ! 悪魔だ。あいつのために俺はすっかり破産した。明日はそのピストルの弾丸をこめかみ[#「こめかみ」に傍点]に打ち込むか、裸にされてこの町を追い出されるかしなけりゃならんだろう」 「なぜあなたはそれに対抗しようとなさらないのです。ジェロニモ氏なんて、なんでもないではありませんか。それ以上の男を引っ張って来ればいいじゃありませんか」  舜吉は落ち着いた声音《こわね》でそう言った。そしてポケットから煙草を取り出すと、それに火をつけて、紫色の煙をはき出した。 「お前さんは俺をからかっとるんじゃな。ジェロニモ! あいつはすてきなやつじゃ。あいつの魂は鉄の弾丸《たま》でできとるに違いない」 「ジェロニモ氏なんてなんでもありません。あれ以上のことのできる人間が一人いますよ」  支配人はびっくりしたような目で舜吉の顔をながめた。舜吉は相手に納得させるように、 「ね、考えてごらんなさい。ジェロニモ氏が綱の上で、いかに危険な曲芸ができたとしてもそれはなんでもないことです。なぜと言って、地上に網を張っているじゃありませんか。あいつはだから、曲芸をしくじって落ちたとしても命を失う心配はないのです。ほんとうの決死的曲芸というものはあんなものじゃありません。地上に網を張らない綱渡り、それこそ真の決死的曲芸というものです」  支配人は憤ったように部屋の中を歩きだした。彼はこの青年の言うことがよく分からなかったらしい。いや、分かっても信じられなかったのかもしれない。 「しかし、しかし」と彼はどもりながら言った。「そんなことのできるやつがどこにいるのだ」  舜吉は黙ってポケットから紙片を取り出した。それは昨日 Wide World から切り抜いた一|頁《ページ》だった。 「此処にいます。よくごらんなさい」  支配人はそれを手に取ると、そこに出ている写真とその下についている説明文を一目で読んでしまった。  ——ナイヤガラ瀑布上《ばくふじよう》の決死的綱渡り。 「それがかく言う私です」舜吉は胸を張って昂然《こうぜん》と言った。     三  その晩街の辻々《つじつじ》に貼られたポスターほどこの少ない町の人々の心をかき乱したものはなかった。もはやだれもジェロニモ氏なんか口にしなかった。  ——ほんとうにそうだわ。網を張った綱渡りなんかなんでもないことだわ。落ちても生命に別条ないばかりか怪我《けが》だってしっこないんだもの。  ——そうだよ。僕もそう思っていたのだ。だから、みんながジェロニモになんか夢中になっているのはばかばかしいと言っていたんだ。  ——ジェロニモだって? あんな臆病《おくびよう》な曲芸師にだれが夢中になるもんですか。それより、明日、遊園地で見せるという、網なしの綱渡りをぜひ見に行かなけりゃ。  ヒポドロームのほうはこのうわさに真っ青になって狼狽《ろうばい》した。彼のほうでもジェロニモ氏を説《と》き伏せて、網なしの綱渡りをやらせようとしたが、そんな無鉄砲なことをジェロニモ氏がうなずくはずがなかった。曲芸師だって生命の惜しいことに変わりはない。そこでヒポドロームの支配人は莫大《ばくだい》な金を提供して遊園地側へ和解を申し込んできた。しかし、もはや、遊園地の支配人は、相手の泥語に耳をかす必要はなかった。なぜならば、遊園地の前売り切符は羽が生えたように売れていった。その切符にいまでは何倍というプレミヤがついている有様だったから。  舜吉は身じたくをととのえて、定められた時間に遊園地へ出かけた。彼が綱渡りを演じようという建物は、あの公会堂よりも何倍も大きかった。そしてその大鉄傘《だいてつさん》の下は、この町の人を全部入れるに足るぐらい広かった。事実、あとから起こったあの事件のために分かったことだが、その日、その大鉄傘の下には、この町中の人が、一人残らずやって来ていたのである。敵方のヒポドロームの団員さえも、このすばらしい、網なしの綱渡りを見物に来ずにはいられなかったらしい。  舜吉は華々《はなばな》しい拍手とどよめきに迎えられてこの大鉄傘の中央に現われた。彼は赤と青と金と銀の衣装を身につけ、その美しさだけでも女の観客の魂をとらえることができた。彼はしょうしょう興奮した足どりで、空から垂れている綱梯子《つなばしご》を登り始めた。無論それは、決して鮮やかな足どりではなかったが、興奮している観客は、だれもそんなことに気のつく者はなかった。やがて、彼は綱梯子の頂上までたどりついた。見ればそこには一本の綱が横に張ってある。舜吉はその綱を渡らなければならないのだ。  舜吉はわれながら自分の落ち着いているのに驚いた。彼はゆっくりとお辞儀をしながら下を見た。すばらしい拍手が起こった。舜吉はその中に自分の恋人も混っていることをよく知っていた。そして彼女がいまどんなに興奮に身もだえしながら、この自分を見守っているか、それを知ることもできた。彼はすっかり幸福だった。彼女の賞讃とあこがれの前に自分の屍《しかばね》を横たえることができるのだ。  舜吉はそれまで握《にぎ》っていた綱梯子を離して、いよいよ綱を渡ろうと一歩足を前に出した。が、そのときである。突然彼はこの大きな建物がくるくると旋回するのを感じた。観客席がぐっと彼の眼前に盛り上がった。そしてすばらしいどよめきとともに、観客が総立ちになるのを見た。赤だの青だのの色がもつれ合って左右に揺れ、そして崩れた。落ちているのだな。自分が落ちているので観客はあんなに騒いでいるのだ。  しかし不思議なことが起こった。間もなく観客のどよめきは静まったけれど、自分が死んでいるような気はしなかった。なるほど、辺《あた》りはひっそりとしている。しかし、この静けさは死ではないような気がする。ふと手がしびれるので気がつくと彼はまだ綱梯子を握っていた。上を見ると、いつの間にやら天井がなくなって、きらきらと昼の太陽がまぶしく照っていた。いや天井ばかりではない。周囲の壁もすっかりなくなって、あるのは舜吉の握っている綱梯子を縛《しば》りつけた鉄の柱ばかりだった。すばらしい大地震が起こって、この町の人々を残らず殺してしまったのであることをさとるまでに舜吉はそれから三十分もかかった。彼は静かに梯子を降りると、そこに死んでいる恋人の骸《なきがら》を踏んで外へ出た。     四  舜吉は無論自殺なんかしなかった。なぜなれば、彼はこの町にたった一人残された王様だったから。彼は死んだ恋人よりも、何倍も美しい女を、他の町からいくらでも買うことができるのである。 [#改ページ]   三本の毛髪     一  音羽《おとわ》の九丁目で電車を降りた山崎と伊藤の二人は、青年らしいむだ口をたたき合いながら、ゆっくりとした歩調で、女子大学の前へ出る坂を登って行った。邦楽座でヴァンダインの「グリーン家の殺人事件」を見て、その帰途を銀座で茶を飲んでいたものだから、彼等はようやく赤《あか》電車に間に合ったのだった。  時刻はもう一時に近かったろうか。女子大学の前へ出る、あの緩《ゆる》やかな坂の前後には、人通りもとだえて、屋敷町らしくひっそりと静まり返っていた。三月も終わりに近い、妙に生暖かい夜で、暈《かさ》をかぶった月が、紫色の水蒸気の奥にぼんやりと光を放っている。両側の屋敷の中から流れて来る甘ったるい草木のにおいが、疲れた二人の肉体を快くくすぐった。もう春が、すぐその辺まで来ているのだろう。それらしい風が彼らの外套《がいとう》の襟《えり》を柔らかく撫《な》でて行く。  山崎と伊藤の二人は、女子大学の近くの下宿で、偶然の機会から親しくなった仲だった。山崎は慶応の医科に、伊藤は商大へ通っている、二人ともまだ学生だった。  彼らはコツコツと靴《くつ》の踵《かかと》を鳴らしながら、肩をすり合わせるようにして、ほの暗い坂を登って行った。なんだか妙に物憂《ものう》い、それでいて、何かしら期待されるような二人の気持ちだった。彼らは銀座でも電車の中でも、たったいま見て来たばかりの「グリーン家の殺人事件」を問題にしていたから、たぶん、その感動がまだ冷え切らないのだろう。何かしらそうした血なまぐさい殺人事件を期待するような気持ちになっていた。 「それはそうと、君が知っている神前さんというのはすぐこの近所だったね」  しばらく黙々として歩いていた二人のうちの、伊藤がふと思い出したようにそう口を切った。 「ああ、そうだよ。これから一|丁《ちよう》ばかり行ったところにある横町の奥だ、そういえば僕もずいぶん神前さんには御無沙汰《ごぶさた》をしている。君に言われて思い出したが、明日あたりあいさつかたがたごきげんうかがいに行って見ようかな」  山崎はなぜか感慨めいた口調で言った。 「神前さんというのは××大学の教授なんだろう。君はどうしてあの人と懇意《こんい》なんだい」  彼らはまだその程度の浅い交際にすぎなかった。山崎も伊藤も、まだお互いに相手の人となりを詳しく知らないのだ。伊藤はだから、この機会にちょっと日ごろの疑点を聞いてみようと思ったのである。 「なアに、中学時代しばらくやっかいになったことがあるのでね。しかし、あの人も不幸な人だ。牛込《うしごめ》のほうに本邸があるのに、いまではああして一人で住んでいるのだよ」  山崎のことばの中には、何かしら深い哀傷の響きがこもっていた。しかし、伊藤は一向それと気づく様子はなく、 「そうだってね、そういう話をだれかから聞いたよ。いったい、なぜ奥さんと別居なんかしているんだい」 「自分では研究のためだと言っているが、そこにはいろいろと深い事情があるんだろう。何しろあの人は神前の養子なんだからね。ああ、見たまえ、あれが神前さんの家だよ」  山崎はふと足を止めて、暗い横町の奥を顎《あご》で指した。××大学教授神前建一氏の邸宅は、ちょうどその袋路地のいちばん奥にあった。神前氏はまだ勉強しているのだろうか、洋館の二階には煌々《こうこう》と電気がついていた。 「何しろ、あの奥さんときたら、とてつもなくひどいヒステリーでね、それに……」  山崎はそれに続いて何か言おうとした。が、彼はその言葉を終わりまで言うことができなかった。なぜならば、そこに、実は意外な事件が持ち上がったのである。煌々とした電灯の灯《ひ》がもれている二階の窓ガラスに、その時二人の人間の姿が映ったのである。それもただの様子ではないのだ。何か激しく争っている様子である。 「おや! どうしたのだろう!」  二人が思わずいっせいに叫んだときである。彼らのほうへ向いている窓が、中からガチャンと打ち破られた。そして、そこから顔だけ出した一人の男が、彼らの姿を見つけたのだろう。 「助けてエ!」  と必死の声を振り絞って叫んだ。 「あっ! 神前さんだ。どうしたのだろう?」  山崎は一瞬間立ちすくんだが、すぐその次の瞬間には、ドタドタと路地の奥へ向かって駆け出した。無論伊藤もそのあとに続いた。窓の側ではなおも必死になって二つの影がもつれ合っていたが、またしても、 「助けてエ! 人殺しイ」  と救いを求める神前氏の声が聞こえた。と思うと、グイと引きもどされるように、その影は奥のほうへ消えた。  ちょうどその時分山崎と伊藤の二人は、神前家の表門をくぐって、玄関の側まで駆け着けていた。表門も玄関も扉《とびら》が開いたままになっていたが、玄関の中は真っ暗だった。それでもこの邸《やしき》の間取りをよく心得ている山崎は、玄関からすぐ正面についている階段を大急ぎで登って行こうとした。そのときである。階段のいちばん上の辺で、 「ギャーッ!」  というような悲鳴が聞こえたかと思うと、ドカドカと一人の人間が石ころのように転げ落ちて来たのである。この不意なできごとにさすがの山崎も思わず立ちすくんだ。彼は危うく真正面から突き当たろうとした。その肉塊を避けると、階段の手すりに手をかけて、じっと下に横たわっている、それに目をすえた。ヒーッというような無気味なうめきがその黒い塊からもれた。そして、激しく手脚《てあし》を痙攣《けいれん》させたかと思うと、そのまま、玄関の敷物の上に、ぐったりと伸びてしまった。 「おい、電気をつけろ! 玄関のすぐ左側にスイッチがあるはずだ、それを、ひねってみてくれ」  そのとき初めて気がついたように山崎がどなった。山崎よりも一歩遅れて入って来た伊藤は、そのときちょうど玄関の入り口に立っていた。彼もこの無気味なできごとに、ガクガクと膝頭《ひざがしら》をふるわせていたが、そう言われて、初めて気がついたようにスイッチに手を触れた。  パッと辺りが明るくなった。二人は同じように足下に目をすえた。と同時にごくりと生唾《なまつば》を飲み込んで真っ青な顔を見合わせた。  彼らの足下には一人の男があおむけになって倒れていた。見ると、その胸には一本の短刀がみごとに刺さって、そこから流れ出る真っ赤な血が、白いパジャマを無惨に染めていた。短く刈り込んだ髪の毛が額《ひたい》にねっとりと粘着《ねんちやく》して、その下にかっと見開かれた白い目が、ぞっとするような、断末魔《だんまつま》の恐怖を物語っている。 「神前教授だ!」  山崎は低いしわがれた声でつぶやいた。そして思わず二人は顔を見合わせた、と同時に、冷水を浴びせられたような恐怖を二人は背筋に感じた。犯人は?——それが二人の頭に、稲妻《いなずま》のようにひらめいてきたからである。  犯人はまだ二階にいるはずである。この階段よりほかに、逃げ道とてない、この邸のことだから、犯人はまだ二階にひそんでいなければならないはずだ。二人は緊張しきった目と目とを見交わせながら、じっとそのままの姿勢できき耳を立てた。しかし、辺りは森《しん》と静まり返って、なんの物音も聞こえない。梟《ふくろう》がどこか近くのほうでホーホーと鳴くばかりで、二階には人の気配もしない。  たぶん犯人も、同じように息を飲み込んで階下の様子にきき耳を立てているのだろう。そう考えることはたまらないくらいの恐怖だった。彼らは床《ゆか》の上に腹ばいになって、階下の様子をうかがっている真っ黒な曲者《くせもの》の姿を目に浮かべた。いまにも白刃《はくじん》をひらめかして、階段を飛び降りて来るかもしれないと思った。  二分——、三分——、しかし、二階は相変わらず森としている。 「おい」  そのとき、山崎が消え入りそうな声でささやいた。その声にぎょっとしたように伊藤は顔を上げた。 「君すまないが、一走り交番まで行ってきてくれたまえ。あとは僕が番をしている」 「大丈夫かい? 君一人になって犯人が降りて来たらどうするのだ」  伊藤はものすごい死体の顔と、山崎の顔とを等分に見ながらふるえる舌の根をかみしめて言った。 「大丈夫。こちらにもそれだけの覚悟があるから大丈夫だ。その代わりできるだけ早く行ってきてくれたまえ」 「よし」  ほんとうを言うと、伊藤もそのままではもうしんぼうがしきれなくなっていた。山崎がいなかったら、彼はすでに逃げ出していたかもしれないのだ。  しかし、幸いなことには伊藤は交番まで駆けつけるには及ばなかった。彼がちょうど路地の入り口を出たとき、女子大学のほうから警官が一人やって来た。と、それと同時に、反対側のほうから四名の学生がガヤガヤと騒ぎながらやって来た。伊藤は手短かに巡査をつかまえて事情を話した。すると、それを聞いていた四名の学生もそれとばかりにいっしょになって伊藤のあとから駆けつけて来た。  人数が増えたので、伊藤は急に元気になった。神前家の玄関へ帰ってみると、山崎はひざまずいて死体をたしかめていたが、彼らの足音を聞くとつと起き上がった。 「どうした。だれも降りて来なかったか」 「来ない。二階には人の気配すらしないのだ」  山崎はきっと、唇《くちびる》をかんで、吐き出すように言った。 「よし!」  それを聞くと警官は佩剣《はいけん》の鞘《さや》をにぎって、きっと身がまえをした。学生たちの中でも、腕っ節の強そうな二人がそのあとに続いた。もちろん伊藤もその中に混っていた。ただ不思議《ふしぎ》なことには山崎はどうしたものかその一行に加わろうとはしないで、あとに残った二人の学生といっしょに、死体の側に立ってぼんやり考え込んでいた。  警官、伊藤、二人の学生は、用心深く身がまえをしながら、一歩一歩階段を登って行った。二階にはまだ灯が点いていると見えて、明るい光線が廊下から斜めに階段のほうまで差している。犯人はしかし、何をしているのだろう。警官たちの足音を聞いて身動きをする気配すらなかった。  先頭に立った警官はとうとう階段の頂上まで達した。彼は援助を求めるように三人の青年を振り返って顎《あご》で合図をすると、いきなり部屋の中へおどり込んだ。 「おい、隠れていてもだめだぞ。早くここへ出て来い!」  三人の青年たちも、その声と同時に部屋の中へおどり込んだ。しかし、その結果はなんという意外なことであったろう。  その二階というのは十畳敷きぐらいの書斎が一間あるきりだった。そして先刻伊藤たちが見たように、中央のシャンデリヤには煌々と灯が点いている。しかし、その部屋のどこにも人影は見えなかった。なるほど、一目見てそれと分かる部屋内の惨状が、たったいまそこに激しい争闘のあったことを物語っている。椅子《いす》も卓子《テーブル》も引っくり返り掛布は引きむしられ、インキが散乱してその辺の絨毯《じゆうたん》を赤に紫にべとべとと染めている。多分神前教授が死にもの狂いで投げつけたのだろう。白い紙片が部屋一杯に散らかって無惨にふみにじられていた。  しかし、しかし、犯人の姿は?——。  そこにはそれらの光景が、白ちゃけた電灯の光の中に静まり返っているだけで、犯人の姿はどこにも見えないではないか。  そのうちにふと警官は気づいて窓の側によると、一つ一つ締まりを調べてみた。しかし、どの窓も異常なく、全部内部から錠が下りている。  伊藤たちが表から見たあの窓のガラスが壊されていたけれど、それとても、首だけがかろうじて出るくらいで、これにも内部から錠が下りている。  その他の出入り口といえば階段に通ずる扉しかないのだが、その階段の下には山崎か伊藤が絶えず張り番をしていたはずである。このとっさの間に、犯人はいったいどこから逃げ出すことができたのだろうか。  読者諸君の便宜《べんぎ》のために、ここに神前邸の見取り図を簡単に書いておこう。 [#挿絵(fig1.jpg、横280×縦584)]  右図に示すイは神前氏が刺された場所、ロはそのとき山崎の立っていた場所、ハは同じく伊藤の立っていた場所、ニは山崎と伊藤が見た窓である。     二  部屋の中をくまなく調べあげた一同は、まるで狐《きつね》につままれたような顔をしてお互いに顔を見合わせた。もし、先刻見た神前氏の死体というものがなかったら、いかに歴然たる格闘の跡があるとはいえだれもみな伊藤のことばを信用しなかったかもしれない。 「変だな。どこから逃げやがったろう」  伊藤は妙にいら立たしい心持ちで吐き出すようにつぶやいた。彼はみなからジロジロ顔を見られているようでくやしくてたまらなかった。彼は現に犯人の姿を見たのだ。いや、直接にではなかったけれど、神前氏ともみあっている犯人の影を窓の外から見たのだ。あれからまだ十分とは経《た》っていない。それだのに、犯人はまるで煙のように消えてしまっている。  ちょうどそのときのこのこと階下から山崎が上がって来た。不思議なことには、彼はこの場に犯人の姿が見えないのを、少なくも不思議がる様子を見せなかった。彼は黙って一同の背後にまぎれ込もうとした。しかし、その姿をいち早く見つけた警官は、 「君たちだったね。最初この事件を発見したのは? 君たちが階下の玄関まで駆けつけて来た刹那《せつな》に神前氏がこの階段の上で刺されたというのだね」  と山崎と伊藤の顔を見比べながら尋《たず》ねた。 「はい、そうです。何しろ僕たちは夢中になっていましたので、何が何やらわけが分かりませんでしたが、僕たちが玄関へ一足踏み込んだ刹那、この階段の上でギャーッという断末魔の声が聞こえました。だから、あのとき神前氏は犯人に刺されたのだろうと思います」  そう答えたのは山崎だった。伊藤はどうしたのか、床の上に目を落として、しきりに唇をかんでいた。なるほど警官が調べてみると、図に示したイの周囲の壁に、べっとり血潮の飛沫《ひまつ》が残っていた。 「そのとき君たちは犯人の姿を見なかったかね」 「いいえ、何しろこの階段は真っ暗でしたから——、僕たちが犯人の姿を見たのは、あの窓に映った影だけです」  そう答えたのも同じく山崎である。  以下警官と山崎との応答—— 「すると、犯人は確かにこの二階にいたんだね」  警官はいかにこの事件を報告すべきかと頭を痛めながら、 「で、その断末魔の声がするとすぐに、あの死体が転げ落ちて来たと言うのだね」 「そうです。ちょうどそのとき僕は、階段へ一歩足をかけていたのですが、その声に思わずひるんだところへあの死体が落ちて来たのです」 「君たちが玄関のスイッチをひねったのはそれからどのくらい経ってからだね」 「さあ、たぶん三分とは経たなかったでしょう。ねえ、伊藤君」  山崎は同意を求めるように伊藤のほうを振り返った。しかし、伊藤はその問いに対してただよそよそしくうなずいただけで、何かしら依然として考え込んでいる。 「その間に、犯人が君たちの前をすり抜けて逃げたというようなことはあるまいな」 「そんなことは絶対にありません。いかに暗闇《くらやみ》とはいえ、大して広くもない階段ですもの、だれかが鼻の先を通り過ぎれば、気がつかぬという法はありません」 「ええと、それじゃ伊藤君——伊藤君と言ったね、こちらは? 伊藤君が俺《おれ》のところへ駆けつけて来ている間にも、だれも上から降りて来はしなかったろうね」  この質問が出ると、それまで目を伏せていた伊藤は、ちらりと目を上げて山崎の横顔を見た。山崎もその視線を感じたものか、瞬間さっと片頬《かたほお》をこわばらせたが、しかししっかりとした語調で、 「いいえ、そんなことは絶対にありません。僕は誓って言います、決してだれも降りて来ませんでした」  とはっきりと言いきった。警官はその言葉を聞くと、困惑しきったように右の親指で額《ひたい》を弾《はじ》いていたが、 「どうも分からない。人間一人消えてしまうなんてあり得ないことだ。何しろどの窓も内側から錠が下りているんだし……だが、そうだ、一つ死体をたしかめてみよう。何かまた手掛りがあるかもしれない」  警官が先に立って部屋を出て行くと、山崎をはじめ、それまで黙って立っていた二人の学生たちもそそくさとそのあとに続いた。ただ一人そのとき伊藤はちょっと妙な動作をした。彼は一同が背を向けた瞬間、すばやく床の上から小さな紙片を拾い上げた。それは赤々と燃えさかっているストーヴの側に落ちていたもので、伊藤は先刻から妙にその紙片が気になっていたのだ。  彼はそれを拾い上げるとほとんど同時に、紙片の面に書かれている文句を読み取った。  それは確かにだれかが引き裂いて暖炉へ投げ込んだその残りに違いなかった。伊藤は一目でそれを読み終わると、あわてて懐中へねじ込んだ。そして急ぎ足で、みなのあとから階段を降りて行った。  伊藤が降りて行くと、警官はちょうどひざまずいて神前氏の死体をたしかめていたが、ふと顔を上げて、一同の顔を見渡しながら低いささやくような声で言った。 「おい、この犯人は女だぜ。見たまえ、死体の指に三本の毛髪が引っかかっているじゃないか」  そう言われて見れば、なるほど、にぎり締めている神前氏の右の指には、長い三本の髪の毛がもつれるようにして絡《から》みついていた。それを見ると若い学生たちは思わず顔を見合わせて、ごくりと生唾《なまつば》を飲み込んだ。この恐ろしい事件の犯人が女——? ああ、そんなことが考えられるだろうか。  しかし、そのとき伊藤は別の考えから、異常なおののきを感じた。彼は先刻拾った紙片の中に書かれている良子という名を思い出したのだ。女——そうだ。確かにこの事件の背後には女がいる。しかも彼女はかなり重大な役割を演じているのだ。伊藤は懐中でにぎり締めていた紙片が、掌の中で焼けつくような感じに打たれた。     三  神前教授の殺害事件は、異常なセンセーションを世間にまき起こした。被害者たる教授の地位、名望、そこへ加えて、犯人が女であるらしいこと、これだけでもすでにこの事件は十分世間に騒がれる価値を持っていた。そこへもってきて、あの世にも不思議な犯人の消失という問題が絡んでいるのだから、世間が多大なる興味をもってこの事件を迎えたのも無理はなかった。探偵小説流行の折からとて、都会の新聞は筆をそろえてこの事件を、あの有名な「モルグ街の殺人事件」だの「黄色の部屋」の事件などと比較していた。しかし、考えてみれば、この事件は、比較されたそれらの事件より一層神秘的なところがある。現に二人の青年が、たとえガラス越しにとはいえ犯人の影を見ているのだ。それからわずか数分の間に、どうして犯人は、あの現場から逃走し得たろうか。言うまでもなく警察では、ぬかりなく足跡の探索を行なった。しかし、その結果は全然むだだった。何しろ数日間の日和《ひより》続きで、地面はからからに乾いていたから、足跡の残りようがないのだ。足跡ばかりではなく、犯人はそのほかに何一つめぼしい遺留品を残していなかった。  ただ一つ、あの三本の毛髪のほかには……  この毛髪より推《お》して、犯人はたぶん女であろうと、警察ではその方面に厳重な探索の手を伸ばしていた。それにはほかに理由がないでもない。神前夫婦のあの不自然な別居生活——それが警察の目のつけどころだった。  神前氏の夫人は浪子[#「浪子」に傍点]といって、先代の神前勇二氏の一人娘だった。神前教授は若い時分ひとかたならぬ恩顧をこの先代の神前氏に蒙《こうむ》ったことがあるので、浪子夫人との結婚は、どちらかといえば報恩的な意味が多分にふくまれているので、夫婦間の愛情は日ごろより至って冷淡だったという評判がある。いや、そればかりではなく、最近には魂まで打ち込んだ女がほかにあるのだというようなうわさをする者さえあった。あの不自然な別居生活も結局そのためであろうなどと、うがった臆測《おくそく》を伝えている新聞すらもあった。  神前教授は、その専門が東洋文化史であっただけに、むかしよりよく支那《シナ》からインド、蒙古《もうこ》あたりまで旅行したことがあった。ことに支那文化については一かどの見識をもってみずから許しているとさえ言われているほどで、いかなる家庭的事情があったとはいえ、いま死なすのは、確かに惜しい学者に違いなかった。  伊藤はこれらの事実を、次から次へと新聞の報道で知るに及んで、確固たる一つの信念を自ら形造っていた。  元来彼は、人一倍好奇心の激しいほうでもなければ、自ら素人《しろうと》探偵を気取るほどの茶気も持ち合わせない男である。しかし、今度の事件は、自分がその発見者の一人であるだけに、何か深く印象づけられるものがあった。  あの煌々《こうこう》と電灯の点《つ》いた部屋の中でもつれ争っていた二つの影——あんなに真剣で、そして必死の争いがほかにあるだろうか。窓を破って救いを求めたときの、あの神前氏の絶望的な叫び——伊藤は永いこと、その声が耳について眠れなかったほどである。しかもそれに続いて起こったさまざまな驚くべき経験——実際それは、彼をして、一個の素人探偵たらしめたのも無理ではなかった。  事件から二週間ほど経った日のことである。  あれ以来めったに顔を合わさない山崎を、伊藤はその部屋に訪《おとず》れた。山崎と伊藤とは、前にも言ったように同じ下宿にいるという誼《よしみ》だけで、そう大して深い交際があるわけではなかった。伊藤は故郷からの少なからぬ送金で、学業にいそしむことのできる身分であるのに反して、山崎は中学時代を神前家の書生として送ったくらいだから、いまだに下宿のほうでもあまり待遇のいいほうではなかった。それに二人の志《こころざ》している専門とて、まったく方向が違っているので、顔を合わせてもそう話の合うはずがなかった。ただ偶然、あの異常な経験をともにしたということだけで、お互いに妙な関心を持ち始めたのである。ことに伊藤が山崎の部屋を訪れたのは、そのほかの理由もあった。  伊藤が部屋の中へ入って行くと、山崎はちょうど山と積まれた本の中で、つくねんと何事かを考えているところだった。山崎には妙な癖がある。彼は下宿にいても、ほとんどだれとも口をきかなかった。彼はいつもぼんやりと考え込んでいるか、それとも何か熱心に読みふけっているか、必ずそのどちらかであった。実際彼の読書力には驚くべきものがある。その読みあさる範囲はおよそ広範|多岐《たき》にわたっていた。あらゆる部門の学問を、彼は選《え》り好みなく読みあさり、しかもそのどれにも等分に興味が持てるらしかった。 「やア、いらっしゃい。さアどうぞ」  伊藤の顔を見ると、山崎は意外にお世辞よく、腰を上げて狭い部屋の中で座布団をすすめたりした。伊藤は落ち着かない気持ちで、暫《しばら》く取りとめのない話をしていたが、やがて思いきったように口をひらいた。 「実は今日来たのは、あの神前氏の事件についてなんですがね」  そう言ってから伊藤はちらりと相手の目の色をうかがった。しかし、山崎は別に驚いた色もなく、かえってにこにこしながら、 「たぶんそうだろうと思っていました。いや、実はもう少し早くおいでになるかと思って、心待ちにしていたのですよ」  そう言って彼はちょっと、しかし悪げのない笑いかたで笑った。 「それじゃ、君は……」  伊藤は相手に先を越されてどぎまぎしながら何か言おうとするのを、山崎は補《おぎな》うように、 「そうですとも。君があの事件について種々研究していらっしゃることは、僕もよく知っていましたよ。僕だって、これで相当自分ながら考えているんですが、一つ、君の意見から先に聞かせていただこうじゃありませんか。そのあとで、僕の意見も言わせていただくとして」  相手のあまり落ち着いている様子に、伊藤はやや自信を失った態《てい》であった。彼のいまの言おうとするところは、山崎にとっては確かに不利な仮説の一つであるべきはずだ。それに気づかぬ山崎ではない。それだのに、どうして、こうもそらとぼけていられるのだろう! 「いや、僕なんかどうせだめですが」と伊藤は持ち前の弱気に、早くもしりごみをしながら、 「それでも、あの世間で騒いでいる犯人の消失——それだけは僕にも説明がつきます」 「ほほう。その説明がつけば大したものです。一つ、それだけでも聞かせていただこうじゃありませんか」  山崎のその人を食ったような態度に、さすがの伊藤もむっとした。彼は思わず語気を強めて、 「いや、僕の意見というのは決してむずかしいのじゃありませんよ。僕はただ、あり得べからざる事実を全然|脳裡《のうり》から省《はぶ》いて、あり得べき場合のみの中から、最も正当であろうと思われる一つの事実を突き止めただけなんです」  伊藤はそう言って山崎の顔を見た。山崎は黙然として謹聴《きんちよう》している様子であった。 「とにかく」と伊藤はことばをついだ。 「犯人はたしかにあの二階にいた。それは君と僕とが目撃したのだから争われない事実です。従って犯人はどこからかあの二階の部屋を出なければならなかったはずです。人間が空気のように消散してしまうわけがありませんからね。では、どこから出たか? それには二種類の出口がある。一つは窓、一つは階段——ところが窓のほうは、全部内部から錠が下りていたのだから、これは問題にはなりません。すると残るのは階段一つです。ところで、犯人がこの階段から逃亡したとすると三つの場合がある。まず第一は、われわれが玄関のスイッチをひねらない前、つまり暗闇《くらやみ》を利用してわれわれの眼前から逃亡した場合、第二は電灯をつけてからわれわれ二人の前を通って逃走した場合、そして第三は、僕が警官を呼びに行ったあとの、君一人が居残っていた場合」  伊藤は突然そこでことばを切ると、じっと山崎の目の中をのぞき込んだ。しかし、山崎は依然として顔色一つ動かさない。伊藤はいささか拍子抜けをした感じに襲《おそ》われたが、言い出したことばを途中で切るわけにはゆかなかった。 「ところで」と彼は再び言葉をついだ。 「第一、第二の場合が、全然不可能なことはいまさら僕が言うまでもありません。すると残るのはただ一つ、第三の場合があるだけです。つまり、犯人は君の目の前を通って逃げたのだ!」  伊藤は今度こそ、相手がまいっただろうというふうに、山崎の顔を見た。しかし山崎は黙って伊藤の顔を見返していたが、やがてからかうような口調で、 「しかし、それもまた不可能ですよ。僕は盲目ではありませんからね」 「無論!」  伊藤はふいにどしんと畳をたたいた。 「君は知っていました。知っていて通した。つまり君が犯人を逃がしたのです!」  ふいに二人の間に沈黙が落ちた。山崎と伊藤はじっとお互いの目の中をのぞき込んでいた。切迫した空気が部屋一杯に広がった。この場合どちらか一人、先に目を反《そ》らしたものが敗けだという感じだった。  やがて、次第に、山崎の方がまずその緊張を破っていった。彼はじっと伊藤の目の中をのぞき込んでいた視線を、ふと他に反らすと、その緊張した面持《おもも》ちを、次第に微笑で柔らげていった。 「なるほど」  と彼は感嘆したようにつぶやいた。 「君の意見はなかなか立派だ。僕もおぼろげながら、君のそうした考えには気がついていました。しかし、伊藤君、それではあまり根拠が薄弱すぎる。僕が故意に犯人を逃がしたとすれば、それにはそれ相当の動機を挙《あ》げることが必要ですね」 「無論。僕だって理由なしにこんなことの言える人間じゃない。君が犯人を逃がした理由、いや逃がさねばならなかった理由、それはこれです」  伊藤はどなるようにそう言うと、懐中から一枚の紙片を取り出して、それを山崎の前につき出した。言うまでもなくそれは、あの事件の当夜、伊藤がストーヴの側から拾い上げて来たあれだった。 「ほほう」  山崎は不審そうにその紙片を取り上げて読んでいたが、 「これはいったいどうしたのですか」  と尋ねた。 「あの晩、神前氏の邸《やしき》の二階で拾ったのです。それを見ても分かるとおり、神前氏は平生《へいぜい》からだれかを恐れていた。それもただの恐れではない。生命の恐怖なんです。ある人物が自分の生命を奪いに来ることを恐れて、哀訴嘆願しているんです。犯人はたぶん、あの夜その手紙を神前氏につきつけ、それをずたずたに引き裂いて相手を面罵《めんば》した揚句《あげく》この兇行に及んだのです。しかも神前氏の恐れていた人物、それはだれあろう。その紙片の端に残っているその女性なんです」  山崎は相手のこの意見を聞いているうちに急に緊張してきた。彼はもはや、相手をはぐらかすような余裕は全くなくなった。まるで伊藤のことばも耳に入らぬように、熱心にその紙片をたしかめていた。伊藤はいまさらのように勝利の快感を味わいながら、 「どうです。それでもまだ君が降参しないのでしたら、もっと言いましょうか。その紙片の端に残っている名前は残念ながら完全なものじゃない。そこにある良子[#「良子」に傍点]というのは、その紙片に書かれた全部じゃないのです。それは浪子[#「浪子」に傍点]とあるべきはずだったのだ、つまり、犯人は神前氏の夫人なのです。これでも、まだ君が犯人を逃亡させた理由にはならないというのですか!」  山崎はしばらく呆然《ぼうぜん》としていた。彼はじっと首をうなだれたまま、相手の一句一句を聞いていた。その顔には歴然と深い困惑の色が見てとれた。 「そんなはずがない。そんなはずがない」  彼はあらぬかたに瞳《ひとみ》を据《す》えて、まるで、何者かに魂を抜き取られたように幾度かそう口の中で繰り返していたが、ふと、伊藤の視線に気がつくと、だしぬけに黙って頭を下げた。 「伊藤君、僕を許してくれたまえ。僕はいままで君の意見を内心ちゃかしていました。ほんとうのことをいうと、この青二才《あおにさい》何を言うと思っていたのです。しかし、いまは違う。僕は君の前に頭を下げます。なるほどこんな証拠があっちゃ君がそういう意見を立てるのは当然だ。しかし、伊藤君、これは何かのまちがいです。実に恐るべきまちがいですよ」  山崎の様子は全く先刻とは打って変わっていた。彼は妙に興奮してその目には涙さえたたえている様子だった。伊藤は何かしらその中に力強い真実の響きさえくみ取ることができた。 「しかし、このまちがいは立派に事実として通りそうだ。君がこの紙片とともに、いま述べた意見を持って出れば、だれももはやそれを疑う者はなかろう。それが僕には恐ろしい。いかにもあの場合、犯人が夫人だったら、君が言うように一も二もなく僕は夫人を逃亡させたろう。夫人と僕との仲がそうなのです。しかし、伊藤君、信じてくれたまえ。僕は決してだれも逃がさなかった。これは神に誓って言います。僕は絶対に何人をも僕の前を通さなかったのです」  伊藤は無言のまま、相手の顔を見つめていた。少なくとも相手を一度降参させたことが彼の自尊心をあおり立てていた。だから、いま相手が述べようとする弁明も、一度は聞いてやろうというような余裕ができていた。 「この紙片は実際僕には脅威《きようい》です。いや、それ以上恐怖でもあります。僕はこの紙片についてしばらく研究してみたいと思います。しかし、こういうと君は僕の逃げ口上《こうじよう》だろうと思うだろう。現に君は、いかに僕が何人をも逃がさなかったと力説しても信じてくれないでしょう。少なくとも、あの犯人の他の逃亡方法が説明されない限りには——よろしい。じゃ僕はいま君にそれを説明しましょう」  山崎はそう言いながら、その紙片をていねいに畳んで、傍の机の上に置いた。伊藤は急に緊張した面持ちになって、ぐっと唾《つば》を飲んだ。 「君は先刻、犯人の逃亡できた途は階段よりほかにないと言いましたね。それには僕も賛成です。それに続いて君は三つの場合を挙げた。それにもだいたい僕は賛成しますが、ただ一つ、君はもう一つの場合を忘れている。しかもそれがいちばん肝心《かんじん》なのです」  山崎は、相手が謹聴しているのを見ると、満足らしくうなずいて、 「君が先刻挙げた三つの場合——暗闇の中にわれわれ二人がいた場合、玄関のスイッチをひねってから君が警官を呼びに立ち去るまでの場合、——それから、君が警官を呼んで来るまでの場合、——と君はこの三つの場合を挙げた。しかし、僕はもう一つの場合をここにつけ加えたいのです。つまり、僕たちがあの玄関へ駆け着けるより前の場合——」 「そ、そんなことは断じてあり得ない!」  伊藤は思わず大声で叫んだ。 「われわれは現に、神前氏の最後の声を聞いたではありませんか、われわれが玄関へ駆け着けた瞬間に、神前氏は階段の上で刺されたのです。だからそれより以前に犯人が逃亡している場合なんてあり得ないことだ」 「そうです。それは確かにそうです。しかし、それでは君に尋ねることがあります。神前氏は前から刺されていましたか、それとも背後からでしたか」 「それは言うまでもない。前からです。心臓にぐさりと短刀の刺さっていたのを見たではありませんか」 「そう、そうです。しかし、君はそのことを深く考えて見ようとはしませんでしたか。神前氏は犯人に追いかけられて階段の上まで逃げて来た。そこを犯人に刺されたとすれば、短刀は背中に刺さっていなければならないはずではありませんか」  伊藤は思わずハッとした。彼は相手に言われたとおり、いままで一度もそのことについて考えたことはなかった。なるほど、そう言われて見ると、確かにそこに矛盾がある。しかし……? 伊藤が首を傾《かし》げるのを見て、山崎は初めてにっこり笑った。 「ね、確かにその点が不自然でしょう。で、僕はそれをこう解釈したのです。あの場合神前氏は犯人の毒手から逃げようとしていたのではなく、反対に犯人の後を追いかけていたのです。つまり犯人は、僕たちが駆け着けるのを知って急に逃げ出した。それを神前氏が追いかけて階段の上まで来たのです。そこを前から犯人に……」 「しかし、それにしても結局同じことじゃありませんか。犯人はそれからどうして逃亡したのです?」 「まア、待って下さい。では、率直に言ってしまいましょう。神前氏に追いかけられた犯人は、一足跳びに階段の下まで駆け降りた。と、ほとんど同時に神前氏は階段の上へ、われわれは玄関へ駆け着けたのです。そのとき犯人は、急に背後を振り返って、持っていた短刀を神前氏目がけて投げつけたのです。ですから、僕たちが神前氏の最後の叫びを聞いたとき、犯人は僕と君との中間ぐらいの、ごく間近《まぢか》な暗闇の中に立っていたのですよ」  山崎の推理には実際驚くべきものがあった。ただ一つの仮説を土台とすれば、なるほど犯人の逃亡径路はそれよりほかにないように思われた。その仮説とは、山崎が絶対に犯人の逃亡を助けなかったということである。  伊藤は果たして、山崎の言をどの程度まで信用していいか迷った。どちらかと言えば、自分の意見のほうが自然でも常識的でもあると思われた。しかし、山崎があくまでも、犯人の逃亡を助けた覚えがないと言い張る以上、どうしようもなかった。山崎もまた山崎で、伊藤の意見の中に含まれている真実性を認めないわけにはゆかなかった。彼みずからも言ったように、あの紙片と同時に、いまの伊藤の意見が陳述されたら、どちらかと言えば自分の意見のほうが影を薄くするだろうと思われるのだった。  そうなっては大変だった。彼は神前氏にもずいぶん恩顧を蒙《こうむ》っているが、浪子夫人にはそれ以上の義理があった。いまこの忌まわしい事件の中へ、そうでなくても世間から疑惑の目をもって迎えられている夫人の名を、絶対に出したくなかった。彼は夫人の無関係であることを心の底から信じている。しかし世間はそうでない。彼らはみな一様に夫人に対して疑惑を抱いている。そこへ伊藤の証拠並びに証言が持ち出されたら、浪子夫人の有罪は確定的なものになるであろう。 「ねえ、君」  しばらくしてから山崎は口を切った。 「お願いですから、僕にしばらくこの紙片を貸してくれませんか。僕はこいつをよく研究して見たいと思います。決して君をごまかすのではありません。僕はこの事件の真実を突き止めたいのです。それにたとえ一刻たりとも、夫人をこの事件の中へ引きずり込みたくないのです」  山崎の面には赤誠《せきせい》が現われていた。それは決してごまかしやその場逃れではなくて、力強い真実の響きを持っていた。 「よろしい。ではそれをしばらく君にあずけておきましょう。その代わり約束して下さい。一週間以内に、君自身この事件の始末をつけなければなりませんよ。でなかったら、僕はその証拠を警察へ届けて出るつもりです」 「一週間ですか」  山崎は目を閉じてしばらく考え込んでいたが、やがてはっきりと、 「よろしい。ではお約束しましょう。一週間——一週間ですね」  山崎はそう言って伊藤の顔を正面から見つめた。     四  その日から伊藤はまたしばらく山崎と顔を合わさなかった。たまに廊下で顔を合わせても、ただ黙礼をして行き過ぎるだけで、どちらからもあの事件のことは一切口に出さなかった。しかしそれでも、伊藤は、山崎が必死になってこの事件の解決に努力していることを知っていた。彼は部屋にいると、放心状態でぼんやり考え込んでいたが、そうかと思うと、急に思い出したようにそそくさと外出したりした。そうした六日間が経《た》った。  伊藤はその日思い立って神田へ古本を探しに出た。彼は二、三時間を費《ついや》して丹念に次から次へと古本屋を漁《あさ》って回ったが、結局目差したものを得られなくて、ぼんやりと疲れた体を小川町のほうへ運んでいた。と、そのとき、ぽんと背後から肩をたたいた者があった。振り返るとそこには山崎が立っていた。 「やあ、どちらへ」  伊藤は思わずこちらから先に声をかけた。 「なアに、そこの東亜文化協会へちょっと用事があってやって来たのですが、それより君は今夜暇ですか」 「ああ、別に何もないが……」 「そうですか、じゃどこかで御飯をつき合って下さい。久し振りですからね」二人はそこで肩を並べて神保町《じんぼうちよう》の米久《よねきゆう》へ入った。伊藤は絶対に飲めないくちだったが、山崎は相当いけると見えて、一人で杯を空にしていた。伊藤は黙って盛んに牛肉をつついていた。 「伊藤君、君は寄席《よせ》はきらいですか」しばらくすると、山崎はふと思い出したように真っ赤になった顔を上げてそう言った。 「寄席ですか。きらいでもありませんね。僕はむしろ活動写真より寄席のほうが好きです」 「そうですか。じゃ、今夜は一つ寄席へでも行こうじゃありませんか。どうせいまから帰っても早過ぎますからね」  時間を見ると七時ちょっと過ぎていた。  そんなことから二人は牛屋を出ると、ぶらぶらと風に吹かれながら神保町の交差点へ出た。そしてそこで相談をまとめると、電車に乗って神楽坂《かぐらざか》演芸場へ出掛けた。  伊藤は山崎のこうした態度が不可解でならなかった。山崎はいっこう無関心な態度をよそおっていたが、その底に一種妙な興奮を強《し》いて押し包んでいることを伊藤は見て取った。しかし、彼はわざと黙っていた。寄席は八分の入りだった。金語楼《きんごろう》が看板主になっていて、山崎たちが入って行ったときはその弟子のなんとかいうのがむかしながらの噺《はなし》を一くさりやってすぐ下りた。  それからいろんな芸人が出たり下りたりした。伊藤はそのどれにもそう大して興味を持てなかったが、そうかと言って別に退屈でもなかった。  やがて中入りがすむと、その次は支那《シナ》人の曲芸だった。寄席の曲芸といえばたいてい支那人だが、今日のは少し変わっていた。いつもの軽業《かるわざ》とは違って白刃投げの早業だった。  支那人は巧みに数本の白刃を綾取《あやど》って見せていたが、それがすむと、やがてかわいい少女が舞台へ現われた。そしてその少女が舞台の一隅の戸板の前に両手を広げて立つと、支那人の芸人が、他の一隅からその体の周囲に白刃を投げ込んで行くのであった。実際それは巧みな手練だった。一本の剣が危うく少女の体とすれすれに植え込んでゆかれるに従って、観客の中から拍手がわき起こった。 「伊藤君!」突然山崎が低い声でささやいた。 「あの辮髪《べんぱつ》の支那人を見たまえ」 「え?」伊藤は山崎のことばの意味がよく分からなかったので、思わずそう反問した。 「ほら、剣を投げているあの辮髪[#「辮髪」に傍点]の支那人さ。あいつの名前を……」伊藤はふと番付に目を落とした。と、たちまちゾーッと背筋の寒くなるような感動に打たれた。  そこに書かれていた文字、   剣技名手 泰 良[#「良」に傍点] 子[#「子」に傍点]  伊藤は思わずブルブルとふるえながら、もう一度、あの巧みな舞台の剣投げに目をやった。 [#中央揃え]*  この話はこれで終わりである。  言うまでもなく支那芸人泰良子はその翌日山崎の告発によって捕縛《ほばく》された。彼は案外素直に犯罪を白状した。なぜ彼が神前氏を殺害したか、それを彼は敵討ちだと昂然として述べ立てた。彼の妹がかつて神前氏のためにもてあそばれた揚句、自殺したその復讐《ふくしゆう》だと彼は言った。しかし、この間の事実をあまり詳細に述べることは神前教授の名誉を傷つけることになるから止《よ》して置こう。  最後に神前教授の握《にぎ》っていた三本の毛髪は、言うまでもなく泰良子の辮髪の一部分だったのである。 [#改ページ]  芙蓉《ふよう》屋敷の秘密    第一章 巷のアラブ  白鳥|芙蓉《ふよう》の殺人事件は、嫌疑者《けんぎしや》の数の多かっただけでも、近来めずらしい事件だった。今こうして指折り数えてみても、事件の解決されるまでには、七人の嫌疑者が警察へ挙げられている。しかも、この七人の嫌疑者のだれもが、おのおの被害者白鳥芙蓉と強い利害関係を持っていて、犯人と目されてもどうにも弁明の余地のないような立場に置かれていたのだからおもしろい。それにもう一つ興味の深いことは、それら七人の嫌疑者の殺害動機というものが、みなそれぞれちがっていたことである。嫉妬《しつと》、痴情《ちじよう》、物盗《ものと》り、怨恨《えんこん》、復讐《ふくしゆう》、友情、子供への愛というふうに、およそ殺人事件の動機として考えられるあらゆる感情が、この事件の推移の上において、俎上《そじよう》に載せられ検討された。  今私がこの事件の完全なる記録をのこしておこうと思いたったのは、一つはじつにこの深い興味に駆られたからでもある。しかし、もう一つの理由としては、この事件の解決者が、かくいう私自身の親友、都築欣哉《つづききんや》であったことだ。終わりまで彼はほとんどこの事件の表面にはでなかったし、したがって新聞でもなんら彼のはたらきについて言及するところはなかった。しかし、警察のよき助言者としての彼がいなかったら、この事件はもっともっと紛糾《ふんきゆう》していたかもしれない。こういうと当時一緒にはたらいた警察の諸君に失礼かもしれないが、もし彼がいなかったら、あるいは永遠に犯人を取り逃がしていたかもしれないぐらいである。じっさい群がる嫌疑者をかきわけて、そのなかから一人の真犯人を適確に指さした彼の手腕はじつにみごとなものであった。警察の諸君がただいたずらにがやがやと立ち騒いで、かえって事件をますます複雑ならしめているうちに、彼は終始黙々として傍観していたが、その間に彼のするどい頭脳のなかでは、ちゃんとりっぱに分析《ぶんせき》ならびに綜合《そうごう》がおこなわれていたのである。  しかし私は、友人都築欣哉の頭脳を三嘆する前に、ここにも見逃せない一つのチャンスというものをみとめなければならないかもしれない。じっさい彼はだれにもあたえられなかったある一つのチャンスというものを幸運にもつかみ得たのである。それはほんの偶然であった。しかし彼は適確にその偶然をつかんで離さなかったのだ。じっさい彼とこの事件との間は不思議な因果《いんが》関係で結ばれていた。もっとはっきりいえば、この事件の起こった当初より、彼はこの事件に関係していたともいえる。私はいま、そのことから書き起こしていこうと思うのである。  あれは五月二十一日の夜のことであった。こういえば物覚えのいい読者諸君は、ただちにそれが白鳥芙蓉殺しのあった夜と同じ夜であることを首肯《しゆこう》されるであろう。そうだ、その夜のことである。私たち、——私と都築欣哉——と同期に大学を出た別の友人が、政府の任務で洋行することになって、その夜、その男のためにわれわれは送別の宴を築地《つきじ》の銀水という料理屋でひらいたのである。話はその送別会の帰途からはじまる。 「君、まっすぐ家へ帰る?」  都築と肩をならべて銀水の玄関を出たとき、私はふと彼をふりかえってそういった。 「いいや、どうでもいいが」  と彼はそういいながら腕時計を見て、 「まだ十時になったばかりだね。銀座でも散歩しようか」  といった。 「いいね」  私もすぐそれに同意した。そして二人はぶらぶらと尾張町《おわりちよう》の交差点へ向かって足を向けたのである。そのとき、尾張町の角へ出るまでに、私たちがかわした会話というのをここに簡単に書き留めておこう。 「君はこのごろ、妙な仕事に関係しているというじゃないか」  と私がふと思い出してそう口を切った。 「何? あのことかい?」  と彼は蒼白《あおじろ》い顔に苦笑をもらして、 「どこから聞いたんだね。そんなことを?」 「もっぱら評判だよ。しかし意外だね、君が探偵になろうなどとは思わなかったよ」 「探偵になどなっていやしないよ。ただ時々、もとめられれば忠言をあたえてやるだけのことさ」  探偵ということばが気に入らなかったらしい。彼は顔をしかめてそう打ち消した。 「まあ、どちらでもいいが、それにしても意外だよ。いったいどんな機会からそんなことになったんだね」 「なあに、別にたいした動機があるわけじゃない。じつはぼくの従兄弟《いとこ》の友人に地方裁判所の検事がいてね、ほら、この前|隅田川《すみだがわ》に女の首無し死体が浮き上がった事件があったろう。あのとき、犯人|捜索《そうさく》のめどがつかなくってよわったという話を従兄弟のところへ来て、その検事の先生が話したのだ。ちょうどそのときぼくも居合わせて二、三ちょっとした意見をのべ忠言を提供したんだよ。ところがそれがことごとく的中したとかで、すぐ犯人が捕まったんだ。それ以来ひどくその検事先生の信用を博して、ときどき変わった事件が起こるとひっぱりだされるよ。なにもみな、暇人のひまつぶしさね」 「なるほど、それにしても意外だね、君にそんな才能があるとは思わなかったよ」  ここにちょっと都築欣哉の身分を明らかにしておく必要がある。都築|司《つかさ》といえばだれでも知っているだろう。今は亡くなっているが生前はO大学の総長で子爵だった。たしか一度は文部大臣の椅子《いす》についたこともあったと記憶している。都築欣哉はその子爵家の次男坊である。彼の長兄は子爵の称号をついで、現に今政府で相当な地位にいるはずだ。都築欣哉はそういう家庭に生まれて大学にいる時分から妙に人とちがったところがあった。そして学校をでると、そういう家柄だから、もとめればいくらでも仕事の口はありそうなのに、彼はいっこうそういうほうにふりむこうともしないで、麻布《あざぶ》の六本木《ろつぽんぎ》に建ててもらった別邸で、一人ぼんやりとくらしている模様だった。細君もまだもらわないはずである。  彼のそうした生活を、私たちはまったく、貴族のお坊《ぼつ》ちゃんらしいわがままと無気力がさせるわざだとばかり信じていたのだが、驚いたことには、その間に彼は、いかにも彼らしい熱情をもって、探偵という仕事に興味を持っていったものらしい。意外だといえばいかにも意外だが、しかし学生時代から彼のすぐれた叡智《えいち》を知っていた私には、なるほどとうなずけぬこともないのである。 「そうかね。じゃあの隅田川の首無し事件は君が解決したのかね。しかし、その後はどうだね。たまにはやはり失敗することもあるだろうね」 「たまにはじゃないよ。しばしばするね。なにしろ駈《か》け出しの探偵にゃ、世間というものは少し複雑すぎるようだ」  都築はそのうつくしい片頬《かたほお》に微笑をふくんでいった。 「しかし、一度君の探偵ぶりというのを拝見したいものだ。こんどなにかの事件に関係することがあったら早速ぼくに報《し》らせてくれたまえ。どうせぼくもいそがしいという身体《からだ》じゃないから、助手ぐらいはつとめるよ。ほらなんとかいったね。シャーロック・ホームズの助手の……」 「ワトソン君かね。だめだめ」  と都築は微笑《わら》いながら、 「君たち小説家はすぐロマンチックな考え方をするからいけないよ。探偵という仕事は現実のなかから最も現実的な部分を拾い上げるのが役目だからね。おや、いつの間にやらぼくもすっかりひとかどの名探偵気取りになったね」  そういって彼はちょっと声を立ててほがらかに笑った。  ちょうどそのとき、私たちはいつの間にやら尾張町の交差点へたどりついていることに気がついた。  銀座には四季がないと、ある詩人がいったそうである。私はそれに付して、銀座では天候のけじめを認識することがむずかしいということばを吐かせてもらいたい。現にその夜は、宵《よい》のうちから妙にうすら寒い薄曇りで、私たちは二人ともレーン・コートの襟《えり》を立てていたのであるが、銀座へ出るとパッとした華やかさに天候の憂えなどはどこの国かへ吹き飛ばされている感じだった。角の電気時計を見ると十時十分。でも、さすがに銀座の雑踏も引き潮に向かう時刻であった。 「どこかへ行って酒でも飲まないか」 「いいね、一つ君を酔っ払わせて、名探偵手柄話でも拝聴するかね」 「ばかな!」  都築はたしなめるように、 「そう探偵探偵っていうものじゃないよ。人に顔を見られるような気がしてきまりが悪いよ。それより君の知ってる酒場かなにかないかね」 「ないこともないが、まあ、君におまかせしよう。どこか一つかわったところへ案内してくれたまえ」  私はじっさい、小説書きという職業にも似合わず、元来が億劫《おつくう》がる性質で、めったに外出をしないものだから、したがって銀座に馴染《なじ》みの店などあるわけがなかった。そこへいくと、都築のほうが多分に都会人らしい敏捷《びんしよう》さを持ち合わせているのだった。 「よし、じゃぼくについて来たまえ」  都築はそういって大股《おおまた》に交差点を横切ると、やがて細い裏路《うらみち》に面した一軒の酒場へ私を連れこんだ。はいるとき表のガラス扉《ど》を見ると「芙蓉酒場」という字が、銀色にすりこんであった。店の中は四坪か五坪ぐらいの広さで、椅子だの卓子《テーブル》だのが、かなり雑然と置きならべられていた。要するにそれは、ふつう銀座うらに見かけられる、最近流行の酒場の一つに過ぎないように見えた。  私たちがはいって行ったとき、奥のほうの卓子に五、六人の青年が陣取っていて、なにかしきりに高声でしゃべっていたが、私たちの姿を見ると、闖入者《ちんにゆうしや》でもむかえるように、一斉に軽い敵意をふくんだ眼でじろりとふりかえった。当然、ちょっと彼らの間にも沈黙が落ちこんだ。都築はしかし練れた態度で、そうした青年たちにもおかまいなしに、彼らといちばん離れた卓上につくとやって来た女給にウイスキーを注文した。 「君、この店だよ。ほら、この間新聞に出ていた、白鳥芙蓉という女が経営しているっていう酒場は」  あつらえたウイスキーが来て、ややくつろいだ気持ちになったとき、都築はふとそんなことをいった。 「ああ、そうか」  と私はあたりを見回しながら、 「じゃまだごく新しいんだね」 「うん、でももう三月にはなるだろう。ときに君は白鳥芙蓉って女を知っているかね」 「名前だけなら知っている。前にどこかの劇団に関係していたことのある女だろう」 「そう、しかし、それ以外にこの名前について思い出すことはないかね」 「さあね」  私は考えてみたが、別に思い出すところはなかった。かなり前につぶれたある新劇団の首脳女優だったことだけは微《かす》かに記憶に残っていたけれど。 「そうか、思い出さなきゃいいよ。ぼくはちょっと不思議に思っていることがあるんだが、いや、なんでもないことなんだ、多分暗合だろう」  都築はそういって、ウイスキーのグラスをぐっと一息にあけた。しかし、後になって考えると、このとき都築がなんの気もなく吐いたことばが、おおいに重大な意味を持っていたことがわかったのである。こうして都築がこの事件の女主人公にたいして、最初よりある一種の疑問を持っていたことが、後になって彼のはたらきをなみなみならず有利にみちびいた。つまり人間、ことに探偵という種類の人間は、だから、なんでも知っていなければならぬということになるのかもしれない。  その時分、私たちのために話の腰を折られた向こうの卓子《テーブル》では、ふたたび話の継ぎ穂を見つけたらしい。 「でなにかい。マダムのほうはどうなんだい」  縁広帽子を目深《まぶか》にかぶった、もみあげの長い青年がそう口を切っていた。 「さあ、マダムのほうはどうだか知れたものじゃない。なにしろこのマダムときたら、とてもかなわないからね」  はでな色のラッパズボンを、紺地のレーン・コートの下からのぞかせている青年が、そういうふうに答えた。 「するとなにかい、服部清二のやつすっかりあつかわれているわけだね。かわいそうに」 「いや、かわいそうというのは」  とまた別の男が口を出した。 「服部清二より静《し》いちゃんのほうだぜ。あれは服部清二にゃぞっこんときてるんだからね」 「そうそう静いちゃんといや、すっかりこのごろ姿を見せないね。親父《おやじ》さんの監督が厳重なのかな」 「なあに、服部をとられたのでくさってるのさ。でも不思議なもんだな。遠山先生といやお前、O大学でも人格者で通ってるんだぜ。それにあんな娘がいるんだからね」 「なにいってやんだい、おたがいさまじゃねえか、そんなこと」  そこでどっと笑声が湧《わ》き起こった。  聞くともなしに私たちの耳にはいるそれらの会話からすれば、なにかここの女主人白鳥芙蓉をめぐる恋愛|沙汰《ざた》らしかった。銀座に屯《たむろ》するこういう巷《ちまた》のアラブにとっては、恋愛は日常の茶飯事《さはんじ》と同様らしい。彼らはじつに巧みに恋をし、じつに巧みに恋の遊戯を楽しむことができる。そこに私たちは世代の距《へだ》たりというものを感じないではいられないのである。 「それはそうと、山さんはどうしたろうな。今夜はどうも変な晩だぜ。マダムは見えないし、服部清二はモチ来ないし、山さんまで見えないんじゃね」 「天候のせいだろうぜ。おれらもそろそろ引き上げようじゃないか」  だがそういい終わらぬうちに、山さんという青年がそこへ現われた。六尺はたしかに越えていると思われる堂々とした体格の青年で、ぴっちりと身に合った紺地の合服を着て、左の手にはカーキ色のパリー製のレーン・コートを無造作に抱えていた。彼は一同の姿を見ると、血色のいい丸顔に、にんまりと愛嬌《あいきよう》のある微笑をうかべて、ずかずかと大股にそのほうへ近づいて行こうとした。だが、彼がまだ一同の卓子《テーブル》へ行きつかぬうちに、ふと彼の脚を止めさせるようなできごとがそこに起こったのである。ちょうど彼がはいって来たときから鳴り出した電話の呼び鈴《りん》で、今しも受話器を取り上げて聞いていたバアテンダーが、 「ええ、山さん、山部さんですか。ああ、いらっしゃいます。ちょうど今いらっしゃったところです」  といっているのが聞こえたからである。 「おれに電話かい」  山部はそういってレーン・コートを無造作に空《あ》いた卓子の上に投げ出した。 「そうです、遠山さんです。静江さんでしょう。そうらしい声でした」  山部はそこですぐ受話器を受け取ったが二語三語なにかいっているうちに、とつぜん受話器を持ったまま棒立ちになった。そして、あまりの驚きのためであろう不用意にも、 「え、え、え、こ、こ、殺したって!」  という叫びを、まるで高いところから突き落とされるような声音《こわね》をもらしたが、すぐ気がついたらしく、 「ばかな、ばかな、だめだめ、待っていたまえ。ぼく、すぐ行く。すぐ行くから待っていたまえ」  彼はなおも二語三語何か訳のわからないことをいっていたが、やがてがちゃりと音を立てて受話器をかけた。それからしばらく放心したようにぼんやりと突っ立っていたが、とつぜん、投げ出してあったレーン・コートを鷲掴《わしづか》みにすると、 「ぼくは失敬する。急用ができたから今晩はこれで失敬するよ」  と、呆気《あつけ》にとられている仲間にそういいすてるとそのまま疾風のように外へとびだして行った。  これらのできごとは実に二、三分の間のできごとであった。それに、彼が不用意にもらした、あの、 「殺したって!」  ということばも、むこうの方に陣取っていた彼の仲間の連中には聞こえなかったらしい。ちょうどバアテンダーは奥へ引っ込んだ後だったし、多分それを耳にしたのは都築と私の二人きりだったろう。しかし、この容易ならぬことばは、十分私たちの心をうごかした。  都築は黙って時計を出してながめたが、 「十時二十五分」  と低い声でつぶやいた。そして私たちは長いこと探るようにおたがいの顔をじっと見合わせたのだった。    第二章 その夜の出来事     一 路上の宝石  私はこれから、できるだけ、その夜、五月二十一日の夜のできごとを、順序よくのべなければならない。それにはなによりも、塚越巡査の経験から記述していくのが最も穏当であるように思う。むろんこれらの事実は後になって新聞記事、警察の訊問書《じんもんしよ》などから材料を得て書き綴《つづ》ったもので、以下しばらくは私の全く関係しない、別の世界で起こったできごとだと思っていただきたい。  一口に目白台《めじろだい》、くわしくいえば高田|豊川《とよかわ》町といわれている付近は、人も知っているとおり、夜が更《ふ》けると森の中のような淋《さび》しさである。豊坂一つをへだてて、わずか二、三町の間で、画然として市内の乱雑から切り離されているその付近は、数えてみても、女子大学、独逸《ドイツ》教会、石本氏邸というふうに大きな建物が建ち並んでいる上に、夜になるとそれらの建物にはまったく人の気も感じられないのだ。  いまその女子大学前の駐在所を出た塚越巡査は、それが癖の、心持ち首を前後に振りながら、こつこつと豊坂を下りて行った。夜の十時過ぎ、右側にぽつぽつと建ち並んだ家も、みんな表を閉ざしているし、左側は彼の背丈の三倍もありそうな崖《がけ》である。崖の上には古い大木が、暗い空に向かって魔物のような枝を差し伸べていた。坂の前後にはまったく人影もない。  やや反《そ》り身になってその坂を下って行くと、ちょうど真正面の見当に早稲田《わせだ》の空が見える。そのへんだけがぽうっと火事のように仄紅《ほのあか》く見えて、それを背景に真っ黒な洋館の避雷針が一本、針をうえたようにそそり立っていた。坂はその洋館につきあたって一度左へ曲がるが、すぐまたその洋館にそって右へ下ることになっている。塚越巡査はいま、この第一の坂を下りきって正面の洋館の塀《へい》の下まで来たがそこでふと足をとめた。さいわいあたりに人気《ひとけ》がないので、好きな煙草《たばこ》を一本|燻《くゆ》らそうと思ったからである。やがてマッチを擦《す》る音と共にめらめらと淡い焔《ほのお》が燃え上がったが、それが吹き消されると、あとにはぽっつりと小さく、蛍火《ほたるび》ほどの点が闇《やみ》の中に残された。巡査はそうして肺臓いっぱいに煙草の煙を吸い込みながら、まじまじと頭の上にある洋館を振りあおいだ。どの窓も真っ暗で、曇った空の色を映《うつ》したガラス扉だけが鉛色に光って、人の気はまったくない。森《しん》と静まり返って空屋敷《あきやしき》のような感じを巡査に抱かせた。しかし、この屋敷の主人の職業をよく知っている塚越巡査は、そのことを別に怪しみもしなかった。 「芙蓉屋敷」——付近ではこの屋敷のことをそう呼んでいる。もとこの洋館は長い間住む人がなくて、荒れるにまかされていたのを、一昨年の春ごろ急に大工がはいって、すっかり見ちがえるようにりっぱになった。そしてそこへ新しいこの家の主人、白鳥芙蓉が移って来たのである。彼女は女らしいロマンチックな考えからか、移って来るとすぐに庭いっぱいに芙蓉の木を植えた。それが毎年その花の盛りのころになると枝いっぱいに白い花をつける。それが庭からこぼれそうに、塀の外からながめられた。人々はだから、この屋敷のことを芙蓉屋敷とよぶようになったのである。  女主人の白鳥芙蓉は三十を二つ三つ越しているかと思われる年輩で、肉づきのゆたかな、眦《まなじり》の冴《さ》えた一口にいって妖艶《ようえん》な女だった。彼女は若い美しい女中と二人きりでこの洋館に住まっていたが、彼女が家にいるとよくいろんな男が出入りをした。しかしその中のどれがこんなりっぱな洋館に彼女を住まわせたり、銀座裏に酒場をひらかせたりするほどの金持ちの旦那《だんな》であるか、だれもよく知らなかった。しかし彼女に旦那があるとすれば——それはもちろんあるのにちがいないのだが——それはよほどの金持ちでなければならぬはずであった。と同時に、よほど寛大な旦那であることも想像された。つまりそれほど彼女は贅沢《ぜいたく》な生活をしていたし、と共に淫蕩《いんとう》らしくも見えるのだった。  塚越巡査はいまふとそんなことを考えながら、敷島を一本吸い終わると、それをぽいと路上に投げ捨てて靴《くつ》の先で踏みにじった。そして一息大きく空気を吸いこむと、またぶらりぶらりと坂を左へ曲がって歩きだした。前にもいったように、この坂はここでいったん左へ曲がったかと思うとすぐまた右へ曲がることになっている。芙蓉屋敷はつまりこの角に建っているのだった。今、塚越巡査が、この第二の曲がり角まで来たときである。彼はぎょっとして、思わず暗闇《くらやみ》に立ちどまった。 「だれだ!」  と塚越巡査は薄闇の中を透かすようにながめながら厳しい声でどなりつけた。芙蓉屋敷のからたちの垣根《かきね》のそばに、灯《ひ》の消えた屋台車が一台寄せかけてあって、この蔭《かげ》に人が一人、もぞもぞと黒くうごめいているのだった。 「え!」  その男はふいに声を掛けられて、びっくりしたようにぴょこんと起き上がったが、巡査の姿を見るとどぎまぎしながら、いいわけをするように早口にいった。 「いまあんどんの灯が消えたので、マッチを擦っているところなんで」  なるほどその男は左手にマッチの箱を持っていた。 「いまごろどこへ行くのだ」 「へえ、目白へ帰るところなんで、早稲田で店を出していたんですが、すっかりあぶれちまいまして……」  そういいながら彼はマッチを擦ってあんどんに灯を入れた。 「ああ、支那蕎麦屋《しなそばや》か」  塚越巡査は初めて気がついて腕時計を見た。 「まだ十時四十分じゃないか。そんな不勉強じゃいかんな」  と気軽にいった。 「へへへ、ご冗談でしょう。このごろの不景気じゃ頑張《がんば》っていりゃいるだけ炭火の損をしまさ。じゃ旦那、ごめんなさい」  男は屋台を曳《ひ》いてごとごとと坂を登っていった。すぐにその姿は曲がり角から見えなくなった。塚越巡査はその後ろ姿を見送っておいて、自分もこつこつと早稲田の方へ坂を下りて行った。  それから二十分ほどのちのことである。一通り巡回を終えた塚越巡査は、先刻の道をこんどは逆にこつこつと坂を登って来た。この坂を登り切れば駐在所である。そこへ帰れば彼はあとしばらく休息することができるのである。空模様はいよいよ悪く、いまにもポツポツとやってきそうであった。降られてはたまらないと思いながら足早に、例の芙蓉屋敷のそばまで来たときである。彼はふと暗い路上に何かキラキラと光るものをみとめて思わず足を止めた。それはさっき支那蕎麦屋が車を止めてうずくまっていた、ちょうどその地点だった。 「おや、なんだろうな」  彼はちょっと靴の先で蹴《け》ってみたが、すぐに身を屈《かが》めてそれを拾い上げると、左の掌に載せてみた。と思わず彼は、ごくりと息を内へ吸いこんだのである。キラキラと光るもの——それは小豆粒大《あずきつぶだい》の石だった。むろん彼が宝石の知識などもちあわせているわけはない。しかし、いま自分の掌にあるものがけっして世の常のガラス玉やゴム細工の贋物《にせもの》でないことだけは、いかに宝石の知識にとぼしい彼にも諒解《りようかい》された。すかして見ると赤に黄に紫に、まるで眩《まばゆ》い五色の虹《にじ》のようにうつくしい色をして光った。 「ダイヤモンド」  そう気がつくと、彼はあわててそれを洋服のポケットに押しこんで、思わずあたりを見回した。さいわいだれも見ている者はいない。それでも彼はだれかに追いかけられるような足どりで急いでそこの曲がり角を曲がった。そういう不思議な彼の態度をむやみに責めてはいけない。そのとき彼は自分がどんなことをしようとしているのか、なにを考えているのか、それすらも意識しなかったのである。ただ高価な宝石を拾ったということが、一時彼を泥棒のように臆病にしただけの話なのである。  途々《みちみち》彼は、いったいどれくらいの価値のするものだろうかとまず考えた。むろん彼の頭には、はっきりとした見当などつこうはずはなかったが、それでもひょっとすると、自分の一月の俸給を七つも八つも集めたぐらいの金額でなければ買えないものかもしれないと思った。そう考えると彼は、急にポケットの中でその宝石が焼けつくような気がした。  それにしても、どうしてあんなところに、こんなものが落ちていたのだろう。……そこまで考えたときである。彼はとつぜん、 「ああ、そうか!」  と思わず声を出してそうさけんで、棒立ちにそこへ立ち止まった。急に心臓がぎょくんと一揺り大きく揺れて額にねっとりと汗がにじんできた。彼はきっと唇《くちびる》を合わせたまま、暗闇の中にむかってじっと瞳《ひとみ》をすえた。  ふと、さっきの支那蕎麦屋のことを思い出したのである。ちょうど同じ地点だ。あの男もあすこで宝石を探していたのではなかろうか。そういえばあの男がマッチを擦ったとき、そのへんに幾本も幾本もマッチの擦りかすの落ちていたことを、彼ははっきりと思い出した。あんどんに灯を入れるのに、あんなにマッチを無駄にするはずがない。この風もないのに——しかし、これはいったいどうしたことだろう。では、あすこにはそんなにたくさんの宝石がばらまかれていたというのか。あの男があんなにマッチを費やしてあさるほど——。  しかし、その考えがまとまらぬうちに、彼の脚はいつしか駐在所の前まで来ていた。 「どうしたんだい。なんだか妙に顔色が悪いぜ」  彼の同僚の新井巡査は、はいって来た塚越巡査の顔を見ると、いきなりそう声をかけた。 「いや、なんでもない」  塚越巡査は強いて平静をよそいながら、そう無愛想に答えたきり、がっくりと椅子に腰を下ろすと、そのまま黙りこんでしまったのである。  それが二十一日の夜の十一時少し前のできごとであった。     二 新井巡査の経験  その晩、塚越巡査にくらべると、彼の同僚の新井巡査はまったく不運だったといわねばならぬ。彼は塚越巡査のように宝石を拾わなかったばかりか、凶暴な凶漢の襲撃にさえ出遭《であ》ったのだから。というのはつぎのような顛末《てんまつ》からである。  新井巡査が自分の巡回時間が回ってきて、駐在所を出たのは、塚越巡査が帰って来てから二時間ばかりの後のことで、もう一時に近かった。彼も先刻塚越巡査がたどったとほぼ同じ道順をたどるべく、駐在所を出るとこつこつと豊坂を下りて行った。宵からの悪天候はとうとう本物になって、その少し以前から小さい雨がこぼれてきていた。新井巡査はそこで、雨合羽《あまがつぱ》にすっぽりと身をくるんで、靴も長靴をはいていた。  豊坂を下る者には、だれの眼にもまず例の芙蓉屋敷が眼につく。だからそのとき、新井巡査は特別に注意をはらったわけではないが、その洋館のどの窓からも灯の色のもれていなかったことに気がついていた。しかし時間であるから彼は別に気にもかけなかった。じっさい十二時過ぎに、女ばかりの住居から明るい灯の色がもれていたら、そのほうがかえって怪しいくらいである。  そのとき、もし、新井巡査が道の中央を普通に歩いていたら、つぎに述べるようなことは起こらなかったかもしれない。ところがそのとき彼は、左側の高い崖に寄り沿うようにしてぶらりぶらりと歩いていた。だからその崖の真っ黒な影のために、彼の姿は完全にかくされていたわけである。おまけに彼は足音を消すに最も都合のいいゴムの長靴をはいていた。その曲者《くせもの》が彼に気づかなかったのも無理ではないのである。  その曲者というのはこうである。  新井巡査は崖に沿って坂を八分目どおりまで下って来た。前にもいったとおり、その坂の正面には芙蓉屋敷がつきだしていて、そこで全体の坂に二つの曲がり角を作っているわけであるが、新井巡査はむろんなにごとも起こらなければ、その坂を左へ曲がるはずであったところが、とつぜんそこへ、坂の突き当たりの右の方から人影が一つ躍《おど》り出して来たのである。ちょうどそこは、道から二、三間引っこんで芙蓉屋敷へはいるためにのみできている一間半程の幅の道がついていた。そしてその奥に鉄の門があることを新井巡査はよく知っていた。  したがって今そこに躍り出した人物を、当然芙蓉屋敷から出て来たものと思うのは無理はなかった。ところがさっきから芙蓉屋敷は真っ暗である。しかも時刻が時刻である。それだけでも、その人物は十分|誰何《すいか》されていい価値があった。ところがさらに怪しむべきことには、思わず崖のかげから乗り出した新井巡査の姿を見るとその人物はぎょっとしたように二、三歩あとずさりしたが、すぐまた足を早めてすたすたと行き過ぎようとしたのである。 「おいおい」  新井巡査も足早にそのあとを追いかけると、くるりと相手の前へ回って声をかけた。雨合羽の下で彼はしっかりと佩剣《はいけん》の鞘《さや》をにぎりしめていた。 「なんですか」  呼び止められた男は、案外すなおに立ち止まった。 「どこへ行くのだ。今ごろ——」 「早稲田へ帰るのです」  相手はぶっきら棒に答えた。声の様子から推して二十六、七の青年らしく思われた。あいにくの薄闇ではっきりはわからなかったが、背の高い、がっしりとした体質で、長いレーン・コートを裾長《すそなが》に着こんでいた。どうしたのか帽子もかぶらないで長い頭髪が雨にぬれていた。 「早稲田はどこだ」 「鶴巻町《つるまきちよう》です」  男は相かわらずぶっきら棒に答えた。 「姓名は!」 「吉——吉本辰夫」 「うむ、ところで君は今この邸《やしき》から出て来たね」 「違います」  相手はその言葉を待ち受けていたかのように、即座にきっぱりと答えた。 「今ちょっとそこで小便をしていたのです。すみません」 「嘘《うそ》をつけ!」  とつぜん新井巡査はどなりつけた。 「嘘じゃありません。ほんとうです」 「ばか! その左のポケットに入れているのはなんだ!」  新井巡査は先刻から気がついていた男の左のポケットにやにわに手を突っこんだ。しかしすぐに、あっと叫んでその手を引っこめてしまった。 「なにをするのです!」  男はつと一歩身を引いた。 「貴様! 凶器を持っているな!」  しかし、そのとき男のほうではすでに身構えができていた。それに新井巡査には思いがけない凶器に思わずすくんだ。それだけの隙《すき》があった。そこへとつぜん男の拳《こぶし》がいやというほど巡査の顎《あご》へ飛んできた。新井巡査は百千の火花が一時に眼から飛び散ったような気がした。しかも彼もなかなか勇敢だった。遮二無二《しやにむに》男に喰《くら》いつくと、相手をぐんぐんとからたちの垣根のほうへ押し寄せていった。しかし相手もよほど自信のある男と見えて、そうして新井巡査を喰い下がらせておきながら、ころを見はからってまたもや左の拳でいやというほど顎を突き上げた。と同時に、右の手で取り上げたなにかしら石のような固いもので、がんといきなり新井巡査の頭をなぐりつけた。  それでこの争闘は終わった。  新井巡査は思わず相手にしがみついていた手をはなすと、ふらふらと二、三歩よろめいた。それからくたくたと膝《ひざ》から腰を折っていったが、やがてどしんと数十丈の断崖《だんがい》から突き落とされたような気がしたかと思うとそのまま気が遠くなってしまった。  いったいどれぐらい長く彼は人事不省におちいっていたのか、あとから調べたところによると、それは僅々《きんきん》七分ぐらいのことであったらしい。しかし、それだけあれば曲者が逃亡するには十分だったろう。だがそれにしても、どうして彼があのひどい打撃にもかかわらずそんなに早く意識を恢復《かいふく》することができたのか、それはつぎのような理由からである。  曲者が逃亡してからしばらくすると、早稲田のほうから一人の紳士《しんし》が急ぎ足でこの坂を登って来た。その男は傘《かさ》も持たずに、レーン・コートの襟を立てて顎を深くその中にうずめるようにしていたが、かぶっている鳥打ち帽子からも肩からもポタポタと雨の滴《しずく》がしきりなしに垂れていた。だいぶ長いこと雨のなかを歩いて来たと見える。  彼は芙蓉屋敷の曲がり角を急ぎ足でまがったが、その拍子《ひようし》にいやというほど新井巡査の体につまずいた。 「おや!」  と彼は仰天したふうで二、三歩|跳《と》びのいたが、やがておそるおそるそこに倒れている人物の上に身をかがめた。 「もしもし、どうかしたのですか、もし」  紳士はやや遠くのほうからそう声をかけていたが、新井巡査のほうでは、紳士にいやというほど横腹を蹴られた拍子に、はっきりと意識を取り戻していた。しかしまだ口をきけるほどにも元気がなかったので、もぞもぞと苦しそうに両脚をうごかした。それで紳士は相手が生きていることを覚ったのだろう、やや安心したふうでそばへ寄って来た。 「もしもし、どうかしたのですか。気分でも悪いのですか」 「うむ、いや、ありがとう」  新井巡査はいま蹴られた横腹をおさえながらようやくぬれた土の上に起きなおることができた。それで、紳士は、はじめて相手が巡査であることに気がついて二度びっくりした。 「ど、どうしたのです。なにかあったのですか」  とそこで彼は不安そうに声をふるわせてたずねた。 「うむ、いや、それより君はそのへんでカーキ色のレーン・コートを着た男に会わなかったかね」  新井巡査はだんだん日ごろの元気が出てくるとまず第一にそのことをたずねかけた。 「いいえ、早稲田の方から上って来たんですがだれにも会わなかったようですね」 「そうか、畜生! ひどい眼に遭《あ》わせやがった」  新井巡査はいまいましそうにつぶやきながらよろよろと立ち上がった。するとそのとき、またしても紳士が驚きの声をあげた。 「ああ、血が、血が垂れてます」  その声に気がつくと、なるほど新井巡査の右の掌からたらたらと二筋ばかりの血潮《ちしお》が垂れているのだった。さっき曲者のポケットに手を突っこんだとき、なかにひそませていた凶器にやられたのだ。新井巡査は相手に教えられて初めて気がつくと、急に痛みを感じ出して顔をしかめた。紳士もこの場の様子からただごとでないことを覚ったらしい。忙しくポケットをさぐるとマッチを取り出して、シュッ! とそれを擦った。 「掌《て》をやられたのですね。ほかにけがはありませんか」 「ありがとう、頭をがんとやられて……」  新井巡査はポケットからハンカチを取り出して、右の手を巻きながら、じろりと相手の男を見た。その紳士というのは三十五、六で色が抜けるように白く、りっぱな髭《ひげ》を鼻下に生やしていた。 「ああ、ぼくですか、ぼくはこういうものです」  紳士は警官の視線に気がつくと、すぐにポケットから名刺入れを取り出して、自分の名刺を相手に渡した。それには農林省嘱託技師軽部謙吉と印刷してあった。 「牛込《うしごめ》の友人のところで碁を打っていて、今、目白へ帰るところです。しかしどうかしたのですか、泥棒ですか」 「うん、この屋敷から怪しいやつが跳び出して来たので、引っ捕えようとしたところを逆にやられたのです」  新井巡査は官吏という相手の身分に気をゆるしてありのままを述べた。 「この屋敷って白鳥芙蓉の家ですね」 「そうです。君は知っているのですか」 「よくここを通ります、しかし……」  軽部紳士が続いてなにかいおうとした時である。ふいに、おやといって新井巡査がそれを制した。そして急に声を落として、 「君がさっき来かかったときから、あの窓には灯《ひ》がついていましたか」 「え、どの窓です? いいえ、そうそう、この屋敷にはどの窓にも灯がついていませんでしたよ。だれか私たちが話をしている間に灯をつけたのですね」  なるほどそういえば彼らのちょうど頭の上に当たる二階の窓から、明るい灯の色がもれていた。それはついさっきまで真っ暗だった部屋だ。 「おかしいね、今ごろだれか起きだしたのかな」  しかし、新井巡査のそのことばの終わらぬうちに、ふたたびその灯はふーと消えてしまった。そしてその後は細い雨のなかに、死のような静けさと暗さとだけが、取り残されたのだった。     三 惨 劇 「だれか起きていますね」  軽部紳士がそういったのは、それからよほどたってからのことであった。それまで二人は黙って、なにかつぎのことが起こりはしないかと、いい合わせたように、じっとこの真っ黒な建物に瞳《ひとみ》を凝《こ》らしていたのだった。こまかい雨がひっきりなしに二人の上に落ちかかってきた。そのなかを早稲田の大隈《おおくま》会館の鐘がかあんとふるえながらひびいてきた。一時だ。それに続いて左の崖の上で、ほうほうと梟《ふくろう》の鳴く声が聞こえた。それを聞くと二人は、思わずちりちりと身をふるわせた。  一分——二分  しかしなにごとも起こらない。屋敷のなかはしんと静まりかえって、人がいるのかいないのか、それすらもわからないほどである。雨はいよいよはげしく降ってくる。もうこれ以上辛抱していることはできなかった。軽部紳士はカチカチ歯を鳴らせながら、 「一度、起こしてみたらどうです」  と巡査のほうを振りかえった。 「うむ、そうしてみよう」  新井巡査はこの紳士に、頼もしげな一瞥《いちべつ》をくれると、すたすたと道からひっこんだ鉄の門のほうへ歩いて行った。軽部紳士もそのあとから続いた。 「おや、門があいている」  新井巡査は不安げにつぶやいた。 「なにかあったのですよ。きっと」  そういう軽部紳士の声も怪しくもつれて咽喉《のど》の奥のほうで引っかかっていた。  門から玄関までの間には三間ばかりの石畳が続いていて、なるほど、見ればその小径《こみち》の両側には芙蓉の花が今を盛りと咲きほこっていた。その白い花が雨にたたかれて、門燈の灯に仄白《ほのじろ》く息吐いているように見えた。玄関まで来るとそこの扉《とびら》も細目に開いたままになっていた。新井巡査はその扉をそっと押しながら二、三度内側へ向かって声をかけた。返事はない。ただ玄関の暗闇が、思いがけない侵入者をむかえて立ちはだかっているような気配が感じられるのみである。二人は顔を見合わせると、ぐっと生唾《なまつば》を呑《の》みこみ、それからそっと玄関のなかへ踏みこんだ。  あとから考えれば、このとき二人はもう少し注意深く振る舞うべきであったかもしれない。しかし凡人のあさましさは、これから先どんな恐ろしい場面に直面するか、夢想だにできなかったのだから仕方がない。彼らにしても二階にあんな惨劇が行われていると知ったら最初からもう少し注意深く振る舞ったろう。とにかく、そのときの二人の不注意のおかげで、足跡という重要な証拠の一つが、完全に無駄にされてしまったのだった。 「マッチを擦《す》りましょうか」  玄関へ入ると軽部紳士が低声《こごえ》でそうささやいた。 「そうしてください。なにしろこう真っ暗じゃどうにもしようがない」  軽部紳士がマッチを擦ると、ようやくおぼろげながらもあたりの様子を見ることができた。二人の立っているところは、一坪半ほどの三和土《たたき》になっていて、その奥にリノリウムの床がちらりと見えた。たぶんそれが廊下だろう。その奥のほうは真っ暗で何も見えない。廊下へ上がると軽部紳士は第二のマッチに火をつけた。廊下は幅一間ほどあってずっと奥のほうまで続いている様子である。その左のほうのとっつきには、多分それが応接間かなにかだろう、特別に大きな扉がぴったりと閉まっている。その扉と向かい合ったところ、つまり廊下の右側には二階へ上がる階段があった。思うに、さっき彼らが怪しい灯を見た部屋というのはこの応接室の真上に当たっているらしい。そこでマッチが消えたので軽部紳士はあわてて三本目に火をつけた。 「とにかく二階へ上がってみましょう。どうも少し様子が変なようですね」  二人が階段へ足をかけたときである。ふと見ると、階段の下に立ててある帽子掛けのスタンドの枝に、黒い中折れ帽子が一つかかっていた。軽部紳士はそれを手にとるとなかの汗革《あせかわ》を見た。 「ボルサリノです。男の帽子ですね」  彼はそういいながら帽子をもとのスタンドにかけた。そして二人は足音を殺すようにして二階へ上がって行った。二階の廊下も真っ暗で、ほとんど手さぐりでなければ一歩も進めないありさまである。しかし、さいわいなことには、目ざす部屋とおぼしいそこの扉だけが細目に開いて、その隙間《すきま》からかすかながらも明るみが鉛色に流れていた。 「その部屋でしたね」 「そうらしい」  新井巡査はその扉の前まで来ると、 「おい、だれもいないのか」  ともう一度声をかけた。しかし依然として返事はない。それにしても先刻灯を消した人物はいったいどこへ行ったのだろう。——なにかしら、不安な予感が二人の胸を煽《あお》り立てた。やがて新井巡査は思いきったように、その扉の把手《とつて》に手をかけると、静かにそれを外へ開いた。たった一つ鎧扉《よろいど》を閉め忘れた先刻の窓からにぶい外光が流れこんで、部屋の中の調度を真っ黒に浮き立たせている。そのほかはなにも見えない。二人はとうとうその部屋の中へ辷《すべ》りこんだ。 「どこかにスウィッチはありませんか。なにしろこう暗くちゃ歩くにも歩かれない」  軽部紳士はそういわれて扉の周囲を手さぐりにさぐってみた。スウィッチのありかはなかなかわからなかったが、それでもやっとのことで見つけ出すと、カチと音を立ててそれをねじった。と、ぱっと薔薇色《ばらいろ》の光が部屋いっぱいに溢《あふ》れて、二人は初めてよみがえったような気がした。しかし、それもほんの束《つか》の間のことで、一渡り部屋の中を見回していた二人は、ふいに頭をがんと殴られたような驚愕《きようがく》に打たれた。  部屋の中には赤い、はでな模様の絨緞《じゆうたん》がいっぱいに敷きつめてあったが、その絨毯の上に、一人の女が咲きこぼれた花弁のように打ち倒れていた。しかもそのふくよかな胸のあたりからは、無残にも鮮血があふれいで、絨毯の上には黒い血のたまりができている。女は体をくの字なりにして、はでな着物の前もあらわに、白い肌《はだ》をあらわしてじっと身うごきもしなかった。一目見てそれがこの家の女主人白鳥芙蓉であることがわかった。 「こ、こりゃ大変だ。こんなことをしちゃおられん。さっそく警察のほうへ報らせなきゃ」  新井巡査は一時の驚愕が覚めると、ようやく持ち前の職業意識がはたらきかけてきた。彼はなにかわけのわからぬことを口走りながらあたふたと部屋を出ていこうとした。しかし、これはいったいどうしたというのだろう。たった今二人がはいって来た扉はぴったりと閉まって、外から鍵がかかっているではないか。 「ナ、ナ、なんですって、扉が開かない? 外から鍵がかかっているんですって?」  軽部紳士もそれを聞くと真っ蒼《さお》になった。犯人はまだこの屋敷のなかにいたのだ。そしてまんまと二人をこの部屋のなかに閉じこめてしまったのだ。そういえばさっき電燈を消したのが犯人だったかもしれない。いや、きっとそうにちがいないのだ。彼は電燈を消して逃げていこうとしたところへ、二人の邪魔者がはいって来たので、やむなくどこかの暗闇の隅のほうにかくれていたものだろう。そして二人がこの部屋へはいるのを見て、さっそく背後から忍び寄って、扉に錠を下ろしてしまったのにちがいない。それは別にむずかしい仕事でもなんでもなかった。二人はすっかりこの部屋のなかの惨状に気をとられていたのだから。 「ちょっと、待って下さい。ぼくに工夫がありますから」  なにを思ったのか、軽部紳士は絨毯の上に膝をついて鍵孔《かぎあな》から外をのぞいていたが、 「大丈夫です。鍵は鍵孔にはまったままになっています。ぼくが一つ外へ回って開けましょう」 「外へ回るってどうするのです。この扉が開かないかぎりわれわれは絶対に出られんじゃありませんか」 「いや、窓というものがあります。少し冒険だけれどぼくが一つ窓からはい出してもう一度玄関から回って来ましょう」 「そんなこと大丈夫ですか」 「大丈夫ですとも。大丈夫でなくても、それよりほかに仕方がないじゃありませんか。とにかくやってみましょう。あなたはしばらくここに待っていてください」  軽部紳士はなかなか敏捷《びんしよう》な男だった。彼はすばやく窓を開けると、造作なく庭へ飛び下りた。そして玄関のほうへ回ると、そのときふと思い出してマッチを擦ってみた。と、はたして、さっきたしかにかかっていた、あの帽子掛けの帽子がなくなっていた。     四 詩人白鳥芙蓉  報告によって間もなく所轄《しよかつ》警察署、警視庁ならびに東京地方裁判所から、それぞれ係官が馳《は》せつけて来た。しかしそれらの顔がぜんぶそろったのは、事件の発見後数時間を経た後のことで、もう夜も白々明《しらじらあ》けに近いころであった。夜中降り通した雨もそのころになってようやくはれ上がろうとする気配を示していた。白い雨の中に、静かに息づいていた夜明けの芙蓉の花は、このときならぬ警察官の来訪に、あわただしくそのまどかな夢を破られていた。  さて係官の人々によって調べ上げられた現場付近のようすというのは、およそつぎのごとき事実の数々であった。  大体この芙蓉屋敷には、階下に三間、二階に三間と都合六つの部屋があった。階下はまず玄関をはいったとっつきに洋風の応接間があり、その奥に八畳の、これは純日本式の座敷があった。その座敷と鉤の手になったところに、四畳半ほどのこれも日本式の部屋があったが、これは台所兼女中部屋として使用していたものらしい。二階はぜんぶ洋風の部屋になっていて、その一つは十二畳ばかりのりっぱな部屋であった。これは客間に使っていたらしく、ピアノだの卓子《テーブル》だのソファだの、この家でもいちばん目ぼしい調度がそこにそろっていた。その客間と向かい合わせに二つの部屋がつながってならんでいた。その一つは寝室、もう一つはこの家の女主人白鳥芙蓉の居間兼化粧部屋といったふうの部屋で、彼女が殺されていたのは実にこの部屋の中であった。  この化粧部屋は八畳敷くらいの部屋で、その隣の寝室とは直接扉をもってつながっており、扉のところには緋色の重いカーテンがかかっていた。あとでわかったことであるが、この境の扉はめったに閉めたことがなくて、そのかわりいつもカーテンがその扉の役目をなしていたということである。刑事連中が調べたところによると、この屋敷全体を通じてどこにも無理にこじ開けたり、外から押し入ったりした気配はまったくなく、玄関のほかはどの窓もみなぴったりと内部から栓《せん》がかかっていた。ただ一つの例外は、階下の八畳の座敷の雨戸が一枚だけ開いたままになっていて、だれかそこから庭へ下りたらしい気配があるということであった。  さて、かんじんの白鳥芙蓉の死体であるが、彼女はあらいはでな模様のお召の上に、薄紫色に、撫子《なでしこ》の模様をうすく染め出した単衣《ひとえ》羽織を着ていた。しかし、その着方ぜんたいがひどく乱雑で明らかにだれかが彼女の死後その着物に触ったものらしいことを示していた。死因はむろん心臓の一突きで、その傷口から推《お》して、凶器は日本風の短刀よりも、どちらかといえば尖《さき》のするどい西洋風の短刀らしかった。凶行はたぶん夜の十一時から十二時までの間だろうという話だった。 「それにしても恐ろしく取り散らかしたもんだね。なんのためにこんなに部屋の中をかきまわしたものだろう」  捜査課長の江口新三郎氏は、現場である化粧部屋をつくづく見回しながら、顔をしかめてそうつぶやいた。じっさい彼がそういったのも無理ではない。化粧部屋のなかは、すっかり泥棒に見舞われたあとと同様に見るも無残に引っかきまわされていた。化粧台の引き出しという引き出しはぜんぶ抜き出されたまま放りだしてあり、書物机の引き出しもそれと同様な憂目《うきめ》にあっていた。中には鍵のかかっているのを無理やりにこじ開けたらしい跡もあった。その他文庫、洋服|箪笥《だんす》などおよそなにか物のはいっていそうなところはぜんぶ何者かの狂暴な手によって荒らされた跡があった。そしてそれらの中身が堆《うず》たかく床の上になげだしてある。 「おや」  ふいに江口捜査課長はそう声をあげながら床の上にひざまずくと、絨毯の上から高価なダイヤモンドを一粒つまみ上げた。 「こりゃ頸飾《くびかざ》りの一部分らしいが、どうしたのだろう。一粒だけここへ落ちているのは……」  だが、彼がそういい終わらぬうちにい合わせた人々がおのおの自分の眼のとどくところから、一粒ないし三粒ぐらいずつ同じようなダイヤモンドを拾いあげた。 「ほほう、頸飾りが切れて飛んだんだね。みんなで八粒ある。しかし、この他はどうしたのだろう」  そこでみんなで床の上にはいつくばって探してみたが、ダイヤモンドはただそれだけしか発見されなかった。 「この犯人はよほど風変わりなところがある。こんな部屋のなかを引っかきまわしておきながら、見たところなにも奪われていないようだし、このダイヤモンドの頸飾りを奪うのが目的なら、殺してしまってから静かに持って行かれたはずだからね」 「いや、しかし殺す前にこの頸飾りを奪い合っているのかもしれませんよ。いずれにしてもこの頸飾りのほかの部分を持っている者が犯人でしょうね。これはよほど高価なものにちがいない」  波川鑑識課長がそういった。 「なるほど、それにしてもこの事件にはよほど妙なところがある」  彼は顔をしかめながら、そこで思い出したように、 「とにかくこの事件の発見者を一応ここへ呼んでもらおう。なにかの理由がわかることがあるかもしれないから」  そこで新井巡査と農林省の技師軽部謙吉とが呼びだされた。二人とも昨夜からの不眠のために、蒼白《あおじろ》い頬をして眼を血走らせていたが、恐ろしい昂奮《こうふん》のために、かえってさえざえとした顔つきをしていた。二人は聞かれるままに、かわるがわるこの事件を発見するにいたったてんまつを述べ立てた。 「すると、君はこの屋敷の前で犯人らしい男を誰何《すいか》したというのだね。その男がどの方角に逃げたかおぼえていないかね」 「それがその、——そいつにこっぴどくやられてそのまま気が遠くなったのですから、——しかし、ここにいらっしゃる軽部さんがとちゅうだれにも遭わなかったといいますから、多分坂の上のほうへ逃げたのではないかと思います。それとも……」 「それとも?」  捜査課長は念を押した。 「いや、これは想像ですが、それとももう一度この屋敷のなかへとって返したものではないかとも思われます。私たちをこの部屋の中に閉じ込めたのが、その男じゃないかとも思われるのです」 「なるほど、ではその男は君が人事不省におちいっているのを見て、またこの屋敷のなかへ取って返したというのだね。しかしどうして君はそんなふうに考えるのだね。それにはなにか理由があるのかね」 「それはこうです」  そのときまで黙ってそばに立っていた軽部紳士が、ふと口を出した。 「その男はいったんこの屋敷を出たが、忘れ物をしたことに気がついてまた取って返したのではなかろうかと思うのです」 「ほほう。忘れ物? それはなんだね」 「帽子です」  そこで軽部紳士は玄関にあった帽子の一件を話した。その話を黙って聞いていた江口捜査課長は、そのときとつぜん、 「その帽子というのはこれじゃないか」  といいながら、そばの床の上から一つの帽子を取り上げて見せた。 「え、え、え」  軽部紳士はその帽子を見るととびあがるほど驚いたが、 「ちょっと見せて下さい」  といって、わななく手つきで中の汗革を調べてみた。 「ボルサリノですね。はいたしかに同じ帽子にちがいありません。しかし、これはいったいどこにありましたか」 「階下の八畳の座敷から刑事が見つけ出したのだ。じゃつまり犯人は、玄関で帽子をかぶったがあの八畳の部屋から逃げ出すとき、またしても置き忘れて行ったということになるね」 「さあ、そうとしか思われません。たしかに同じ帽子ですからね」 「よろしい。この帽子がだれのものであるかはすぐわかることだ。S・Hと頭文字《かしらもじ》が打ち抜いてあるから、は、ひ、ふ、へ、ほと、さ、し、す、せ、その頭文字のついた男を探しだせばいいのだ。そのほかになにか君たちに気づいた点はないかね」  二人は黙って考えていたが、それ以上なにもいうことはないといった。それで二人はまた別の部屋へ下って休息することをゆるされた。 「どうもこの事件には妙なことばかりだ。宝石、この帽子——と、第一犯人がそれほどの思いをして取り返しに来たこのたいせつな証拠品を、またしても置き忘れて行くというのは実に愚劣きわまる話じゃないか」  捜査課長は吐き出すようにいった。 「とにかくもう少しくわしく部屋のなかを調べてみよう」  そして化粧部屋のなかの捜査はさらに続けられていった。するとつぎからつぎへといろんな事実が発見されて、それがことごとく係官たちをてこずらせるのであった。さっきいった書物机の上には、三つのコップとウイスキーの瓶《びん》とベルモット瓶が一本ずつ置いてあった。そして三つのコップのどれにも少しずつ黄色い液体が残っていたが、その一つはウイスキーで、ほかの二つはどちらもベルモットだった。ところが同じようなことが階下の八畳の座敷にも残っているのである。そこにもだしっぱなしになってあったちゃぶ台の上に、やはりコップが二つとウイスキーの瓶が一本置いてあった。ところが、このほうはコップの底に残っていた液体を検《しら》べてみると、どちらもウイスキーばかりであった。だからこういうことになるのである。同時にか、あるいは別々のときにか、階下の八畳の部屋では二人の人間がウイスキーを酌《く》み交わしており、二階の化粧部屋では三人の人間が、一人はウイスキーを、二人はベルモットを飲んでいたことになるのである。  そのほかにもう一つ不思議なことが同じように二階と階下とにあった。それは階下の八畳の部屋を調べると、灰皿の中から二、三本のゲルベゾルテの吸い殻《がら》が出てきたが、二階の灰皿のなかには一本もゲルベゾルテはなくて、みんなバットとコスモスの吸い殻ばかりであった。コスモスはどうやら白鳥芙蓉の吸っていたものらしい。ではバットは? それが犯人の吸っていたものだろうか、なおも部屋のなかをよく検べてみると隣の寝室の床に一本、無理にもみ消したバットの吸い殻が落ちていた。と同時に、白鳥芙蓉の死体のそばには、ほとんど灰になりかけたゲルベゾルテの吸い殻が一本落ちているのだった。これらの事実が、まるでたがいに呼応して警察官をからかっているようであった。バットとゲルベゾルテ——。 「どうもわからん。何だかこの事件は非常に複雑化しているようだぜ」  江口捜査課長はある想念を頭のなかにきずき上げようとしても、どうしてもそれがまとまらないので自棄《やけ》を起こしたようにとんとんと床を蹴った。そのときである。さっき床の上に投げだされた品物を根気よくかき分けていた検事の篠山比左雄氏が、ふと古びた一冊の書籍を拾い上げた。彼はそのうすっぺらなページを指で繰っていたが、ふいにほほうという叫び声をあげた。 「どうかしたのかね」  その声を聞いて捜査課長がのこのことそばへやって来た。 「ごらんなさい。妙なものがありますよ」  篠山検事は不思議そうな顔をしながら持っていた書籍を相手に渡した。 「やどり木」  と捜査課長が表題を読みながら、 「詩集だね。おや、白鳥芙蓉——じゃ、この女は詩人なのかね。わが生命なる美智子に捧ぐ、ふん、なるほど、この女が友達かだれかに捧げたものなんだね」  捜査課長はなおもパラパラとページを繰っていたが、その最後まできたとき、とつぜん、 「や、や、や」  と思わず叫び声をあげた。 「どうかしましたか」  と篠山検事がびっくりしてのぞきこもうとすると、 「見たまえ、君、この発行日を——明治四十二年八月二十一日発行と印刷してあるじゃないか。明治四十二年といえば」  と捜査課長はいそがしく指折り数えながら、 「今からざっと二十二年前だぜ。いったいここに死んでいる女はいくつだい。三十五歳としても二十二年前といえば十三か十四のまだほんの小娘じゃないか。そんな小娘に詩集が発行できると思っているのかね」 「でも、でも」  検事はわけのわからぬ混乱におちいった。 「でも、そこには白鳥芙蓉著とあるじゃありませんか」 「それはそうだ。しかし、この白鳥芙蓉と、ここに死んでいる白鳥芙蓉とは別人にちがいない。二十年前にも白鳥芙蓉という人間が別にいたのだ」  捜査課長はきっぱりとそういった。それで部屋のなかには急におもくるしい沈黙が落ちこんできた。皆、一種えたいの知れぬ蜘蛛《くも》の網に引っかかったように、思い思いに瞳を凝らしていた。もう夜はすっかり明けはなれて、白い朝の光がひえびえと部屋のなかに流れこんできている。その涼しい空気のなかで、一同は熱っぽい眼を見交わしていた。  そのとき、扉が静かに外から開いた。そしてこの冷徹な雰囲気《ふんいき》のなかに、パッと明るい花弁がこぼれかかったように、眼覚むるばかりに化粧したうら若い一人の女が姿をあらわした。 「わたし、この家の女中のすみでございますが、なにかかわったことがございましたそうで」  彼女は人々の顔を見まわしながら、落ち着いた、静かな、むしろ白々《しらじら》とした声音《こわね》でそういった。    第三章 事件の輪郭     一 時間の食い違い  私が白鳥芙蓉の殺害事件をはじめて知ったのは、その翌朝五月二十二日の朝のことであった。  いつものとおり十時過ぎに眼をさました私は、寝床のうえに寝そべったまま、敷島の一本に火をつけてゆっくりそれをくゆらしながら、女中が枕《まくら》もとにおいて行ってくれた新聞を手に取り上げた。そうして寝床のなかで、一面の出版広告から丹念に見てゆくのが、私の毎朝のくせであった。ところが、そうして社会面まできたときである、私は思わずおやとさけんで寝床のうえに起きなおった。  ——謎《なぞ》の女白鳥芙蓉殺害事件、犯人は何者か、淫蕩《いんとう》極まる彼女の半生——  そんなふうな表題が、ただわけなく、読者の好奇心を煽《あお》るようにでこでことならべたてられている。私は思わず、動悸《どうき》のたかまる思いで、眼早くその記事に眼をとおした。読んでみると、しかし、表題の大げさなわりに、その報道している内容は貧弱であった。たぶん、午前二時の締め切りに間に合わなかったのだろう。そこには単に、前女優白鳥芙蓉が昨夜何者とも知れぬ者に殺害されたという事実が報道されているだけで、そのほかのくわしいことはなにもわかっていなかった。  しかし、私にとってはそれだけで十分だった。第一章に述べておいた、銀座芙蓉酒場における昨夜の経験が、私のあたまのなかへいちはやく駈《か》け込んで来た。 「そうだ。やっぱりそうだったのだ」  一瞬間私は、とらえどころのない気持ちで、ぼんやりと新聞のうえに眼を落としていたが、急に気がついてくわえていた煙草の吸い殻をぽんと灰皿のなかに投げこむと、いきおいよく寝床からとびだしたのだった。  電話をかけると、さいわい宅にい合わせたと見えて、都築欣哉はすぐ向こうへでてきた。 「都築君? こちらは那珂、那珂省造だ。どうした君、今朝の新聞を読んだかね」 「ああ、那珂君?——ああ、あのことか」  都築は電話口でちょっと考えているふうだったが、 「どうだね君、ちょうどさいわいだが、きょう君はひまじゃない?」 「ええ、ああ、別に急ぎの仕事ってないが、なにか用かね」 「うん、ぼくは今、その事件で出かけようとしていたところだ。何なら君もいっしょに行かないかね」 「行くってどこへ?」 「現場へさ」 「ほほう、白鳥芙蓉の屋敷へかい?」  私はちょっと驚いて聞きかえした。 「そうだよ。係検事がちょうど昨夜君に話したあの先生でね、現場を見たいなら今のうちにやって来いといって、さっき電話がかかってきたところさ。どうだ、いっしょに行かないかね」 「ほほう。それは——行きたいね、しかし、かまわないかしら、ぼくがいっても?」 「だいじょうぶだとも、かまうもんか。それじゃね、ぼくはこれからしたくして自動車で出かけるが、とちゅう君のところへ寄ることにしよう。どうせ道順だからかまやしないよ。そのかわり、あまり手間をとらせないように用意して待っていてくれたまえ」  都築の家は前にもいったように麻布六本木だし、私の家は牛込|矢来《やらい》町だから、高田豊川町へ行くにはなるほどそう大した寄り道にはならないわけであった。  そこで電話をきると私は、居間へかえって大急ぎで牛乳とパンで朝飯をすまし、都築の自動車がやって来るのを待っていた。  それにしても、これはまあなんという早い回り合わせであろう。昨夜私は都築に向かって、一度君の探偵振りというのを拝見したいと冗談のように物語った。それから十二時間もたたぬうちに、早くも、私のその物好きな希望はみたされようとしているのだ。しかし、その事件というのが、なんだか私たちにも関係がありそうに思える——私は因縁《いんねん》の不可思議ということについてちょっと考えずにはいられなかった。  二十分ほどして都築の自動車はやって来た。玄関に立って待っていた私は、すぐにそれへ乗りこむと、大急ぎで早稲田のほうへ向かって走らせた。昨夜の雨はすっかりはれて、町はすがすがした初夏の朝らしくほがらかさを示していた。 「驚いたね、どうも」  自動車に乗りこむと、私はいきなり大きな声でそう話しかけた。 「なんだかしら、あのときちょっとした予感みたいなものがあったが、まさかこんな大事件だとは気がつかなかったよ」  そういったのは、むろん、昨夜芙蓉酒場で耳にしたあの電話の一件のことを思いだしたためであった。 「うむ」  都築はしかし、なぜか浮かぬ顔で、ほかのことを考えているらしかった。 「しかし、君はどうしてこんなに早くこの事件を知ったのだね。ぼくはたった今新聞で読んだところなんだが」 「ぼくだってなにも知りゃしない」  都築は気難しそうに口を開いた。 「君と同じさ。新聞を読んで驚いているところへ、篠山検事——、ほら昨夜君に話したあの人さ、あの人から電話がかかったので、とにかく出かけようとしているだけのことさ」 「じゃ、先生、いま現場にいるんだね」 「いるだろう。もう少したてばうるさい連中がみな引き上げるから、そのじぶんにやって来いといってきたのさ。死骸《しがい》だけでも見ておいたほうがいいだろうというのさ」 「ふむ、じゃ、死骸はまだあるんだね」  私は少し憂鬱《ゆううつ》になって思わず黙りこんでしまった。私はまだ自殺にしろ、他殺にしろ、変死体というものを、生まれてから一度も見たことがない。ことに血みどろな女の死体を想像すると、思わず私は後悔に似たしりごみを感じないではいられなかった。 「しかし」  と、しばらくして私はまた切りだした。 「今度の事件の場合では、君は大分とくをしているわけだね。警察ではまだ、あの電話のことまで知りはしないだろうからね」 「それだよ、ぼくがいま考えているのは」  都築はゆっくりと私の方をふりかえっていった。 「昨夜ぼくたちがあすこで聞いた言葉というのは、たしかに『殺したって?』と相手に問いかけた言葉だったね」 「そうだよ。そして相手というのは遠山静江という女なんだ。バアテンダーがそういったじゃないか」 「うむ、そしてそのときぼくはたしかに時計を出してみて、十時二十五分と君に注意しておいたね」 「うむ、しかし、それがどうかしたかね」 「うむ、それがおかしいんだ。ぼくも今朝新聞を読んだとき、すぐにあのことを思いだしたんだよ。新聞には殺害の時間が書いてなかったからね。ところが、さっき篠山検事から電話がかかったとき、念のために時間を聞いてみたんだ。ところが白鳥芙蓉の殺されたのは十一時から十二時までの間だというんだ、だから昨夜ぼくたちが聞いたあの電話は、白鳥芙蓉のことじゃなかったんだね」  一瞬間私は呆然《ぼうぜん》とした。私がこの事件にかく興味を持ったのは、昨夜のできごとのあの因縁があるからにすぎないのである。ところが、白鳥芙蓉の殺されたのが十一時以後だとすれば、あの電話はまったく意味がなくなってしまう。 「ふむ、すると昨夜のぼくたちが耳にした電話と、これとは、まったく無関係なのかね」 「さあ、それがまだよくわからない」  都築は考えぶかくつぶやいた。 「暗合にしちゃ、あまりうまくゆき過ぎているからね」 「そうだ、それとも遠山静江という少女は、たしかに白鳥芙蓉を殺害すべき動機を持っていたらしいからね。それに——」  と私はちょっと考えて、 「あれはたしかにまちがいじゃなかったね。たしかに、『殺したって?』と相手に反問したんだったね」 「そうだ。たしかにそうだったよ。だからいっそう困るんだ。いっそぼくは、昨夜のああした事実を知らなかった方がいいと思うんだよ。なんだかこの事件では、はなから迷わされそうなんだ」  それきり都築は黙りこんでしまった。私自身もあたまのなかでいろいろと、十時二十五分にかかってきたあの電話と、十一時以後に起こった白鳥芙蓉殺し事件とを、結びつけてみようとあせってみた。山部という男のあのあわてかたから見て、まさか犬や猫《ねこ》が殺されたのだとは思われない。とすれば、遠山静江の報告してきたのは、白鳥芙蓉ではなしにもっと他人の殺人事件だったのだろうか——  そんなことを、慣れぬ頭でとつおいつ考えているじぶんに、自動車は早くも、豊坂の芙蓉屋敷の表へ着いていた。     二 羽織の不思議  見ると芙蓉屋敷の表はいっぱいの人だかりだった。そのなかに制服の巡査がいかめしく見張りをしていた。からたちの垣根をとおして、真っ白な芙蓉の花が、こぼれるように咲いているのが見える。緑色の洋館には正午前の陽《ひ》があざやかに照りはえて、どうしてもこれが、恐ろしい殺人事件のあった家とは思えなかった。  私たちがはいって行くと、玄関に立って刑事らしい男となにか話をしていた中年の紳士が、つかつかとこちらにやって来た。 「やあ、これはようこそ」  紳士は精力的な面に、ひとなつこい愛嬌をたたえて手を出した、それが篠山検事だった。 「ちょうどいいところでした。今現場の撮影が終わったところです。もう少し遅れるとなにもかも持って行かれるところでしたよ」 「そうですか、それはいいぐあいでした。では、さっそく現場を見せていただきましょうか。でも、その前に事件が発見された顛末《てんまつ》をうかがえる暇があるといいんですけれど」 「なに、それくらいの時間ならありましょう」  篠山検事はポケットから金時計を出してながめながら、 「じゃ、そこへおかけください。お話しいたしましょう」  と、玄関わきにある二つの椅子を私たちに指さした。  ここで検事が物語ったところは、すべて前章に述べておいたとおりである。彼は歯切れのいい調子で、さすが職掌柄、要領よく昨夜のできごとを述べていった。都築は黙って聞いていたが、時々それらの要点だけを手帳に控えていった。ことに塚越巡査が路上で宝石を拾った件と、新井巡査がこの屋敷前で凶漢に襲撃された一件は、深く彼の心をうごかしたらしかった。(この点、前章参照して下さい) 「すると、塚越巡査はこの屋敷の前で十一時少し前にダイヤモンドを拾ったというのですね。そのダイヤと現場に落ちていたダイヤとはまったく同型のものなんですね」  検事の物語が一通り終わると、はじめて都築は口を切った。 「そうです。同じ頸飾りからちぎれてとんだものとしか思えません」 「それで、塚越巡査の誰何したという支那蕎麦屋はどうしました?」 「目下捜索させています。なに、すぐ見つかるでしょう」 「それでもし、その支那蕎麦屋が、やはり同じダイヤモンドを持っていたとすれば、この屋敷の表には十時四十分以前からダイヤモンドが落ちていたということになりますね。つまり現場で頸飾りがちぎれてとんだのは、殺人の行われるより、少くとも二十分前になるという勘定になりますね」 「そうなんです。それでわれわれ、すっかり見こみがはずれて大弱りなんです。なにしろ塚越巡査がようやくいまになってそれを届けてきたんですからね」  都築は黙って考えこんだ。しかし、私には彼の考えていることがよくわかった。彼は十時四十分という時刻と、十時二十五分のあの電話のことも考えているのだ。私もやはり同じことを考えてみた。しかし結局二つを結ぶ鍵を発見することは困難だった。なにしろ芙蓉の殺されたのは、それからよほど後のことだというのだから。 「それでは、もう一つ、新井巡査を襲撃した曲者《くせもの》というものをもう少しくわしくうかがいましょうか」  しばらくしてから、都築はまたそう口を切った。 「ああ、それなら当人から話させましょう。新井巡査はたしかまだいるはずですから」  しかし、新井巡査もその男の人相をくわしく述べることはできなかった。ただ、声音から推して、二十五、六と思われる青年で、背の高い、がっしりとした体格をしていて、カーキ色の長いレーン・コートを着ていたと、ただそれだけしか記憶していなかった。しかしその人相を聞いたとき、私はなによりもまず第一に山部というあの青年を思いださずにいられなかった。昨夜芙蓉酒場で見かけたとき、彼もたしかカーキ色のレーン・コートを抱えていた。そして帽子をかぶっていなかったようにおぼえている。帽子をかぶらないのは、近ごろの青年の流行なのだ。 「で、今のところその男が犯人だという見こみなんですか」 「まずそうなっています」  検事が横の方から口を出して言った。 「なにしろ凶器をポケットにかくしていたといいますからね」 「なるほど、それでその男は、新井巡査が人事不省におちいっている間にもう一度屋敷へとってかえした。そこへ、新井巡査ともう一人——ええと、軽部さんですか、その人がはいって行ったあとで、二人を閉じこめておいて逃げ出したというのですね」 「そうです。たぶん、それにまちがいなかろうと思うんですね」  都築はそこで、またしてもなにか長いこと考え込んでいたが、やがて顔をあげると、 「いや、ありがとうございました。では、現場を見せていただきましょうか」  といった。  現場は昨夜発見されたときとそのままで、ほとんどなにも手をつけていないという話であった。都築はその部屋へはいる前に廊下と扉との位置だの、扉と階段のぐあいなどをいちいち検《しら》べていたが、最後にようやくその部屋のなかへはいって行った。現場の模様はすべて前章において述べておいたとおりだが、私はそのときはじめて白鳥芙蓉という女を見た。柄が大きな、中年の女によく見るように肉がしまって、見るからにゆたかなのびのびとした肢体を持っていた。顔はもう、紫色に黝《くろず》んでいたが、それでもまだ生前の美しさを思わせるに十分だった。長く引いた眉《まゆ》、一本一本|紅《べに》で染めた睫毛《まつげ》、丹花に彩《いろど》った唇——、しかし、濃い死の隈《くま》どりの中では、それはいっそ妖異《ようい》な感じでもあった。年は三十五、六にも見えるが、あるいはそれよりももっといっているかもしれない。死という強い現実の前には、さすがにお得意の彼女の化粧も、嘘をいうことがむずかしそうにも見える。  都築は黙って彼女の死体のそばにひざまずくと、しばらくその体を撫《な》で回していた。彼はほとんどどんな感情をも表にあらわさなかったので、なにか発見したのやら、しなかったのやら、私たちには少しもわからなかった。篠山検事は都築のそうした態度に慣れているとみえて、かなり熱心に相手の様子をみていたが私にはむしろ滑稽《こつけい》な気持ちがしたくらいであった。  しばらくすると都築は膝を払って立ち上がった。 「なにか見つかりましたか」  篠山検事はすばやく相手の表情をよみながら、にこにこしてそうたずねた。 「ええ、少々——」 「ほほう、すると、われわれはまた何か見おとしをしたらしいですね。いったいどんなことですか」  都築はそれに答えようとはしないで、私の方を振りむくと、 「君、昨夜雨が降り出したのは何時ごろだったね」  とたずねた。 「え?」  私はあまり意外な問いにちょっと面喰《めんくら》いながら、 「ええと、昨夜君とわかれて家へ帰ったのが十一時二十分で、それから間もなく降りだしたとおぼえているから、たぶん十一時半ごろだろうと思うよ」 「そうだ。たしかにぼくもそうおぼえている」  そういってから、都築はくるりと検事のほうをふりむいた。 「昨夜白鳥芙蓉が殺されたときには、この羽織を着てはいませんでしたよ。おそらくどんな羽織も着ていなかったでしょう。だれか十一時半過ぎにここへやって来てこの羽織を着せて行ったものがありますよ」 「え? なんだって?」  検事も私もそのことばにとびあがらんばかりに驚いた。なるほど見れば白鳥芙蓉の死体は、はでなお召の上に、薄紫に撫子《なでしこ》の模様を染め出した単衣《ひとえ》羽織を着ている。しかしだれが、なんのためにそんなことをしたのだろう。それよりも、どうして都築にそんなことがわかったろう。 「いったい、そ、それはどういうわけですか?」  検事はつかつかと死体のそばへ寄ってもう一度のぞきこんだが、すぐ都築の方を振り返ってそうたずねかけた。都築はしかしそれには答えようとはしなかった。かえって彼は、私たちを押さえつけるような手つきをしたが、いきなり、つかつかと閉まっている扉の側へ近寄ると、ぐいとそれを押し開いた。 「あ、あなたは女中のおすみさんですね。ちょうどいいところでした。今あなたを呼びにやろうと思っていたところです。どうぞこちらへおはいり下さい」  一瞬間、廊下に立っていた女は、当惑したようにどぎまぎとしていたが、 「あの——わたくし、今お呼びになったように思いまして——」 「ええ、呼びましたよ。しかしあなたじゃありませんでした。あなたに来ていただこうと思ってほかのものを呼んだのですが、かえって好都合です。どうぞおはいりください」  女は仕方なくおずおずとはいって来た。彼女は二十五、六の、濃化粧をした美人で、どう見ても女中とはみえぬ。服装にしても女中に似合わしからぬけばけばしたものだった。思うに彼女は、女中というより女主人の話相手としてこの屋敷の中に住まっていたものだろう。意外なできごとのために気も顛倒《てんとう》しているのだろう。美しい眼の縁《ふち》には黒いくまができている。 「たぶん、朝からさんざんおなじようなことをたずねられてお疲れでしょうが、もう一度またおたずねしたいのです。気を悪くしないでくださいよ」 「ええ、いくらでも——」  彼女はお世辞のいい都築のようすに、よわよわしい微笑をうかべながら、低い声でそう答えた。 「おすみさん、おすみさんとおっしゃいましたね、姓は——」 「千草といいます。千草すみ——」 「千草すみ、いい名前ですな。それであなたはいつごろからこの屋敷にいらっしゃるのですか」 「先生がこちらへいらしてからずっと——わたくし、先生が劇団にいらっしゃるころからお世話になっていたものですから」 「はあ、するとあなたは芙蓉座にいらしたんですね。道理でふつうの女中さんとはちがうと思っていました」  都築はそこでなにを思ったのか、ぴょこんと軽く頭を下げた。女は眼下に微笑をうかべたまま黙っていた。 「そうすると、あなたと白鳥さんのご関係はずいぶん長いものですな。何年になりますか」 「はあ、足かけ三年になります。劇団のつぶれる少し前からでございますから」 「いったい、白鳥さんは芙蓉座を組織なさるまではなにをしていらしたのですか」 「ぞんじません。だれもごぞんじの方はないようでございますわ。先生もそれについてなにもおっしゃいませんでしたし、外国にでもいらっしゃったのではございませんかしら、だれかがそんなことを申しておりましたが」 「そうそう、そんなことも聞きましたな。とにかく白鳥芙蓉ほどの女性の前身がわからないのは不思議だとね」  都築はそこでなにか考えていたが、 「でも、あなたは三年もいっしょにいられたのだから、だいたい最近のことはごぞんじでしょう。白鳥さんのパトロンというのはだれなのですか」 「さあ」  おすみはそこで困ったように首をかしげて、 「それがいっこうぞんじませんので、先生はそういうことはいっさい他人におっしゃらない方でしたし……」 「でも、あることはあるのでしょう。これだけのくらしをしていらっしゃったのに、失礼ながらだれかの手から金でも出なけりゃ……」 「ええ、それはおありだったんでしょうけれど、あたしどもにはいっこうわかりませんでした。なにしろ先生はああいう賢い方ですし、あたしはぼんやりのほうですから」 「どういたしまして」  都築はそこでもう一度頭を軽く下げると、 「それでは昨夜のことをおたずねしましょう。昨夜あなたはここにいらっしゃらなかったのですね。どうしていらっしゃらなかったのですか」 「追いだされたのでございますわ。たぶん邪魔になるからでございましょう。今夜はお客様があるからなるべく遅く帰って来てくれという先生の御命令で、七時ごろにここを出たのでございます」 「それからどこへおいでになりました。あ、こんなことをおたずねしちゃ失礼だったかしら」 「いいえ、ちょっとも」  女は眼下にさえざえとした微笑をうかべながら、 「あたし仕方がありませんから邦楽座へまいりましたの。それがはねてから少し銀座をぶらつきましたが、雨が降りそうになってまいりましたので帰ろうかと思ったのですけれど、何だかまだ早いような気がしまして赤坂の姉の家へ寄ったのですわ。するとそのうちに雨になってまいりますし、それに電車をなくしてしまいましたので、とうとう泊まることにしたのでございますわ。今から思うとあたしなんだか大へん悪いことをしたような気がしまして」  女はそういって、袂《たもと》を探ると白いハンカチをとり出した。 「いや、そんなことはありません。なにも運命ですからな」  都築は相手をはげますように、 「ところで、その昨夜来るといった白鳥さんのお客さまをあなたはだれかごぞんじじゃありませんか」 「ええ、いっこう——、でも服部さんじゃございませんかしら、あの方の帽子が今朝《けさ》残っていましたから」 「服部? 服部清二という青年ですね。なるほど、そうかもしれませんね。その青年と白鳥さんとはだいぶ仲がよかったらしいですな」 「ええ、もう、かなり」  女はふたたび眼下に微笑をうかべた。 「このごろ、ことによくいらっしゃいましたわ」 「そうですか、いや、いろいろとどうもありがとうございました。あ、それからもう一つ、この部屋の灰皿なんか毎日|掃除《そうじ》するんでしょうね」 「ええ、毎日」 「すると、ここにあるこの吸い殻なども、昨夜あなたがおでかけになったあとでできたものだと考えてもよろしいわけですな」 「ええ、ここのも、それから階下の八畳のお部屋のも——」 「なるほど、すると昨夜は大分客があったわけですな。ええと、もうほかにおたずねすることはないかな。——ああ、そうそう、この部屋にあったもので、なにかなくなっているものをあなたごぞんじじゃありませんか」 「ええ、そのことはさっきも申し上げましたが、そこの壁にかかっていました短剣がなくなっているのでございますわ。ペルシャのものだとかおっしゃって、先生が自慢にしていらしたものですの」 「どこですか、それは」 「そこの——ほら、先生の今倒れていらっしゃる真上あたりですわ」  女はそこでちょっと身ぶるいをした。さっきから見まい見まいとしていた死体が、そのとき思わず眼にはいったからであろう。 「いや、どうもありがとうございました。では、お引きとりください。お疲れになったでしょう」 「ええ、でもご用がございましたらいつでも」  おすみはそう愛嬌を残して部屋の外へ出て行った。  検事はたぶん、それらの問答が、今朝自分たちのやったもののくりかえしにすぎなかったせいであろう、その間中退屈そうにしていたが、彼女の姿が見えなくなると、急に体を前にのりだした。 「さっきあなたは、この羽織のことをおっしゃったが、あれはどういうわけですか」 「いや、なんでもありませんよ」  都築は無造作に死体のそばへよると、羽織の裾《すそ》をつまみあげた。 「ごらんなさい。この裾に五つ六つ泥《どろ》がはね上がっているでしょう。ところが着物には一つもはねがないのです。それに肩のところを触ってごらんなさい。羽織の方は少ししめり気を帯びています。だから昨夜雨が降り出してからこの羽織を着てここへやって来た者——むろん女でしょう——があるのです。それがどういうわけか知りませんが、自分の着ていた羽織をぬいでこの死体に着せて行ったのです。そう気がついてから、着物と羽織の血のつき方を検べてごらんなさい。ごくわずかですが、羽織のほうには少し不自然なところに血がついています。しかし、それも検べなければわからないくらいですから、この羽織を着せかけたのは、凶行後いくばくもたっていないことがわかりますよ」  検事はそういわれて、もう一度死体のそばへ寄ってみたが、 「なるほど、驚きましたよ。しかし、それならこの羽織はだれのものでしょう。おすみに聞いてみようじゃありませんか。白鳥芙蓉のものでなけりゃあの女はなぜ黙っているのでしょう」 「いや、それを聞くのはおよしなさい。たぶんそれは白鳥芙蓉の羽織にちがいありませんよ。それより、おすみという女の姉の居所はわかっているでしょうね」 「わかっています。しかし、あなたはまさかあの女を——」 「まだ、なんともいわれません。一応はだれも疑ってみなけりゃ——じゃ、これから一つ階下《した》のほうを見せてもらいましょう。ああ、それよりダイヤモンドはどうしました」 「ダイヤは警察の捜査本部の方へ引き上げました。なんならあとでお寄りになるといいでしょう」 「そうですか。ここは大塚署でしたね。それは好都合です。あすこの署長なら知っていますから、じゃそういうことにしましょう」     三 白鳥芙蓉と名乗る女  都築欣哉が自分の満足のゆくように芙蓉屋敷の中を検べ終わったのは、かれこれ一時間ほど後だった。その間に警察からやって来て、白鳥芙蓉の死体その他証拠物件をいっさい引き上げて行った。私は彼の捜査中、ずっと彼のそばについていたが、その間、彼がなにを発見し、なにを考えていたか、少しも推察することができなかった。  一時少し過ぎ、それでもようやく彼の捜査は終わって、私たちは連れ立って芙蓉屋敷を出た。 「どうした? なにかわかったかね」  私は持っていたステッキを軽く振りながら、都築の顔を見た。 「うん二つ三つ——」  都築は考え深そうに答えた。 「ふん、どんなことだね。ぼくは始終君のそばに付き添っていて、君の探偵ぶりをながめていたが、いっこうなにもわからなかったね」 「それは、君がこういう仕事に慣れないからだよ」  都築は白い歯を見せながら、 「どこへ眼をつけていいか、その要領がわからないからさ、なに、たいしたことはないよ」 「いやに謙遜《けんそん》するね。しかし、君の発見を一つぼくに聞かせてくれないかね」 「聞かせてもいい、まず第一にあの羽織の一件さ」 「うん、あれはなるほど不思議だね。どういうわけで死骸に羽織なんか着せて行ったんだろう」 「いや、事実はわれわれの考えているよりうんと単純かもしれないぜ。ぼくにもまだよくわからないがね。——それから、第二には、玄関の帽子掛けにかけてあった帽子が、どうして奥の八畳から発見されたかということ」 「それは君、さっき篠山検事もいってたじゃないか、警官たちを現場へ閉じこめた男が、玄関でその帽子をかぶったが、八畳の部屋から逃げ出すとき——、ぼくの思うのに、そいつはそこで靴をはいていたんだろうと思うのさ。でなきゃ、玄関は開いていたんだからまっすぐにそこから逃げ出すはずだからね。靴を八畳の方の庭に脱いでいたので、それをはきに行ったときに帽子をまた忘れたのさ」 「靴をはくために八畳の方へ回ったという君の説には賛成だ。君がそこまで気がつくとは思わなかったよ。しかし、君は靴をはくとき、いちいち帽子をぬいでそばへ置くかね」 「さあね」  私はどう答えていいかわからなかった。 「まあいい、いずれわかるだろう。——それから第三には、白鳥芙蓉の死体をぜひとも解剖してもらわなければならないこと」 「え? じゃ君はあの女の死因にはもっと他の疑いがあるというのか」 「死因には疑いはない、しかし——」  といいかけて彼はふと立ち止まった。そこで私も思わず立ち止まったが、 「おや、早稲田へ出てしまったじゃないか。君は大塚署へ行くんじゃなかったのか」 「いや、実は、その前に君にたのみたいことがあるのだ。新宿《しんじゆく》のカフェー・リラという店へ行ってね、昨夜薄紫に撫子の模様を染め出した羽織を着た女が来なかったか、いや行ってるにはちがいないのだが、そうしたら、その女の様子なり、そのときの動静なりを検べて来てもらいたいんだが」 「え?」  私は思わず棒立ちになった。 「君はさっきの羽織のことをいっているんだね、しかし、どうしてその女が——」 「まあ、いい、その説明はあとでする、とにかく行ってくれるかね」 「行くよ、それぐらいのことはお易いご用だ」 「ありがとう、じゃぼくもちょっと他へ回って、それから大塚署へ行くことにする。四時にあすこで会おう」  私は都築と別れると、すぐにタキシーを呼びとめて新宿へ走らせた。みちみち私はいろんなことを考えてみた。私も都築とその第一歩を同じくしているはずである。したがって彼にわかって私にわからないというはずはないのだ。しかし考えをまとめようとすればするほどいろんなことがごっちゃになって、結局どこへ焦点をおいていいかわからなくなってしまう。第一、昨夜の電話のことが、私の念頭にこびりついて離れない。あの一件はこの事件とはまったく別個の問題で、むしろ忘れてしまった方がよさそうだのに、それが忘れようとすればするほど、いっそうしつこくまつわりついてくるのだった。結局、なんの考えもまとまらぬうちに、私は新宿へついてしまった。  カフェー・リラというのは武蔵野館《むさしのかん》のならびに最近できたかなり大きな店だった。場所柄、お昼だというのに、もうかなりの客がたてこんでいた。さいわい私はまだ昼飯を食っていなかったので、ついでにここで食事をしていこうと、ゆっくりと御輿《みこし》をすえた。 「ねえ、君」  とだいぶしばらくしてから私は、ぼんやりと私の卓子《テーブル》の向こうにすわっている女給にことばをかけた。 「君は昨夜この店へ、薄紫に撫子の模様を染め出した羽織を着た女が来たのをおぼえてない?」 「どんな女? 若い女?」 「う、うん、若い女だ」 「さあね、一人かしら」 「うん、たぶん男といっしょだろうと思うのだがね」  まさかこんな店へ、若い女がただ一人来るはずはあるまいと思ったので、とっさにそうでたらめをいった。 「そうね、そういう客ならきっと二階よ。二階には特別室があるんだから」 「そう、じゃ、昨夜の二階の係の人をちょっと呼んでくれないかね」 「まあ、いやにご熱心ね、だれ? その人? 奥さん? ラブさん? いいわよ、憤《おこ》らなくっても、いま呼んであげるわ。清《きよ》さあん、ちょっと」  お清さんはそう呼ばれて、奥の方からけげんそうな顔をして出て来た。 「なにかご用?」 「この方があなたにお話があるんですって? なんだかおのろけの筋らしいわ。うんとおごってもらいなさいよ」  前の女が奥のほうへ引っこむと、そのあとへお清さんは腰をおろした。 「なんなの、話って?」 「うん、ちょっと君に聞きたいことがあるんだ」  私はそういってから、さっきと同じようなことをたずねた。女はするとたちまちにやにや笑いながら、 「まあ、いやね、やきもち?」 「ばか、そうじゃないんだ。ちょっと聞きたいんだからさ。じゃ、来たんだね、この店へ」 「ええ、いらしたわ。だけどあたし、やきもちだったらあの方に気の毒だからいわないわ」 「ばかだなあ、そんなことじゃないんだ。ね、いい子だから話しておくれ」  私はそういいながら、すばやく幾枚かの銀貨を相手ににぎらせた。 「そうね、あたししゃべってもいいかしら、なんだかあの方の迷惑になりそうだわ」  女はなおもそんなふうに私をじらせていたが、 「じゃ、思い切っていってしまうわ、その方ならいらしてよ、たしかに」 「ふうん、何時ごろだね」 「さあ、たしか八時半ごろだったと思うわ。二階の特別室へおはいりになって、長いこと待っていらっしゃったのよ。なぜあたしがその方を覚えているかというとあまり長いこと後から来るというお連れの方が見えないので、二、三度お聞きしに行ったのよ」 「ふむ、するとその女は来るとすぐ、あとから連れが来るといったんだね」 「ええ、白鳥芙蓉といって訪ねて来る男があるから、来たらすぐこちらに通してくれとおっしゃって」 「ええ!」  私は思わず卓子の端をつかんだ。 「なんだって? 白鳥芙蓉ってその女が名乗ったのか」 「ええ、そうおっしゃったわよ。あたし妙な名前だからよくおぼえているの。女優さんでしょう、あの女?」 「う、まあ、そうだが」  私は思わずポケットからハンカチを取り出して額を拭った。この女はまだ今朝の新聞を読んでいないらしい。でなければ、白鳥芙蓉の名前をこんなになにげなく口に出せるはずはなかった。しかし、それは結局、私にとってさいわいだった。彼女もあの事件を知っていたら、もう少し警戒したにちがいないからである。 「で、結局、その男というのは来たのかね」 「ええ、いらしたわ。ずいぶん待たせて——、かれこれ十時近くにいらしたわ」 「どんな男だったね、それは——」 「あら、それがお聞きになりたいの」  と、女はいたずららしい眼をかがやかせて、 「でも、いいわ、安心なさいよ。あなたよりずっとお年寄りだったし、あなたほど好い男でもなかったわ」 「いや、これはどうもありがとう」 「ほんとうよ。四十五、六の、痩《や》せた、かさかさしたような方よ。でも服装だの、態度だのはなかなかりっぱな紳士だったわ。あなたもそうだけれど」 「いちいち、ぼくを引き合いに出すのはごめんこうむりたいね。で、どうした、彼ら二人は?」 「彼ら二人ですって? まあ憎らしいのね」  お清さんはそこでちょっと私を打つ真似《まね》をして、 「どうもしやしないわ。でもちょっと変なとこがあったわよ。その紳士が白鳥芙蓉って女が来ているはずだからというもんだから、あたし、この部屋に案内したのよ。すると女の方はすぐに立って出て来たのに、男の方はなんだか、呆気《あつけ》にとられたように、しばらくぼんやりしていたわ。あたし人違いをしたかしらと思ったけれど、そうでもなかったと見えて、やがてその方も中へはいって行ったの」 「ふむ、それからどうしたね」 「さあ、そこまではあたしだって知りゃしないわ。でもね、一度なにかご用はないかしらと思ってうかがいに行ったのよ。するとそのとき卓子の上に何か写真みたいなものが置いてあったわ。ひどくふるい写真でよくはわからなかったけれど、若い男の方と、まだ産まれたばかりの赤ん坊を抱いた奥さんらしい方と三人で映っている写真だったわ」  それ以上のことはなにを聞いてもわからなかった。ただ彼らはそうして一時間あまりなにかひそひそ話をしていたが、やがて十一時ごろになって自動車を呼んで別々に帰って行ったという話であった。 「いったい、その女というのはどんな女だったね。若い女かい。美人なのかい?」  私は最後までとっておいた質問を、そのときはじめて切り出した。すると、お清さんは、案の定、まあとばかりに眼をみはった。 「あら、あなた、それをごぞんじないの。ご冗談でしょう」 「ところが知らないのだ。実はね、その男の細君というのからたのまれてね、聞きに来たんだが、いったいどんな女だったね」 「まあ、どうだか、怪しいわね」  そういいながらも、彼女の話すところによると、その女というのは二十四、五の、細面のなかなか美人だという話であった。その顔つきなどをくわしく聞いているうちに、私はふとさっき会ったおすみの姿を思い出した。しかし、おすみとすれば、彼女はなぜ白鳥芙蓉などと、女主人の名を名乗って、男と怪しい密会をとげたのだろう。それよりも第一、この不思議な羽織の一件だ。都築がどうしてその女が昨夜このカフェーへやって来たことを知っていたのだろう。私にはなにもかもが不思議なことだらけである。まるで、怪しい魔術師の魔術にでもかかっているような気がするのであった。  しかし、それ以上のことは、もうこの女から聞き出せそうになかった。そこで、ふと思いついて、彼らが呼んだ自動車屋というのを聞くと、思い切ってこのカフェーを出た。自動車屋はさいわいにも、カフェー・リラのすぐ近所にあった。たずねてみると、昨夜カフェー・リラの女客を送って行ったという運転手は折りよくガレージにい合わせた。 「ああ、あのお客ですか、あのお客なら早稲田の終点まで送って行きましたよ。そうですね、向こうへ着いたのがちょうど雨がボツボツと降り出して来たじぶんでしたが、お客様は自動車を降りると、目白のほうへ行く道を小走りに走って行きましたよ」  男の方の客はよくわからなかった。というのは、彼は銀座尾張町の交差点まで送らせたというのだから、彼はまた、そこから流しの自動車を拾って、どこかへ帰って行ったに違いない。それにしても女客の行き先がわかったのはなによりであった。彼女は早稲田の終点から目白の方へ走って行ったというのだ。しかも、時間もちょうど符合している。私は今さらのように都築の炯眼《けいがん》に敬服しないではいられなかった。それにしても、その女がもしおすみだったとしたら、いったい彼女はこの惨劇のうちに、いかなる役を演じているのであろうか。  もしや——、と私はふと、いちばん恐ろしいことを、彼女の上に考えないではいられなかった。  時計をみると、ちょうど三時過ぎである。四時には大塚署で都築に会わなければならない。そこで私はそこのガレージから車を傭って、すぐに駈《か》け着けることにした。自動車は新宿から大木戸を抜けて、|市ケ谷見付《いちがやみつけ》の前へ出、そこを左へ登って、矢来、山吹町を通り過ぎて江戸川へ出た。そして、そこの橋を渡ろうとした時である。  私は思わず、 「ストップ!」  とするどく運転手に声をかけた。 「え、ここでいいんですか」 「うん、いいんだ。いいんだ。急に用事を思い出したんだから」  私はけげんそうな顔をしている運転手に、銀貨をにぎらせるとあわてふためいて自動車を降りた。江戸川橋を渡ろうとしたときである。私はふと、自動車の前を行く一人の青年を見つけたのである。それはたしかに、昨夜芙蓉酒場でみたあの山部という青年にちがいないのだ。彼は今日も、ぴったりと身に合った洋服の上に、カーキ色の長いレーン・コートを着ている。相かわらず無帽だった。  いったい、この男はどこへ行くのだろう? 私にとっては、この男もまた有力な嫌疑者《けんぎしや》の一人なのだ。だから今、偶然彼の姿を見かけた私は、どうしてもそのまま見のがすことはできなかった。  山部は山吹町の方から、音羽の通りの方へ江戸川橋を渡ると、そこで彼はしばらくなにか思案しているらしかった。彼は橋の袂《たもと》に立って、しばらくぼんやりとあたりを見回していたが、やがてなにを見つけたのか、急につかつかと大またで、小石川水道町の方へ道を曲がった。と、そこには、五、六間も行かぬうちに自動電話があった。彼はその自動電話のそばに立って、またしても、なにか案じ煩《わずら》っているような顔付きできょろきょろとあたりを見回していたが、ちょうどその自動電話から二、三間向こうに、今しもおでんの屋台を組んでいる爺《じい》さんを見つけると彼はつかつかとそのほうへ寄って行った。 「爺さん、爺さん」  彼は熱心に屋台を組んでいる爺さんの背後からそう声をかけた。 「なんだね」  車の上にしゃがんで何か一生懸命に探していた爺さんは、むっくりと顔を上げると、けげんそうな顔をして問いかえした。その間に私はつとかたわらの電柱のそばに寄った。電柱の面にはさいわいにもその時出たばかりの号外が貼《は》ってあった。だから、私が彼らの会話をぬすみ聞きするにはまことに好都合であった。 「爺さんは毎晩、ここへ屋台を出しているのかね」  山部はまずそんなことをたずねた。 「ふむ、たいていの晩はここへ店を出しているよ」  爺さんはうさん臭そうにじろじろ山部の姿を見ながら、そっけない声でそう答えた。山部のほうは、しかし、いっこうそんなことは頓着《とんちやく》なしに、 「じゃ、昨夜もここへ店を出していたろうね」 「ふむ、出していたよ」 「それなら、ちょっとたずねたいことがあるのだがね」  山部はそこでふとことばを切ると、なぜか不安そうにあたりを見回した。彼の眼はふと私の姿をとらえた。しばらく彼は不安そうにじっと私のほうを見ていたが、私はいっこうかまわない様子でポケットから敷島を取り出すと、ゆっくりそれに火をつけた。  山部はしばらくその様子をながめていたが、やがて思い切ったように、くるりと爺さんの方へ向きなおると、 「昨夜ね、そうだ十時から十時半ごろまでの間なんだがね、ここの自動電話をかけていた娘があるのをおぼえていないかね。十七、八の、断髪で洋服を着ているちょっと可愛い娘だ。爺さん、それをおぼえていないかね」  とたずねた。  私は思わず、心臓がどきりと大きくうごくのを感じた。遠山静江——、そうだ、山部がたずねているのはたしかに彼女のことに違いない。十時から十時半までの間といえば、ちょうど芙蓉酒場へ電話がかかってきたと同じ時刻だ。すると、遠山静江はこの江戸川の自動電話から電話をかけてきたのか。 「ふむ、しかし、その娘さんがどうしたんだね。なにかお前さんとその娘さんと関係でもあるのかね」  そうたずねた爺さんの口振りから察すると、彼は明らかに彼女のことをおぼえているにちがいなかった。山部もそれと気づくと急に力を得たように、 「じゃ、爺さんは、その娘をおぼえているんだね。実はね、その娘はここからある人のところへ電話をかけたまま、それきり、行方《ゆくえ》がわからなくなってしまったんだ。爺さん、なにか知っているならぼくに話してくれませんか」  彼はもう、私のいることなど忘れてしまったようにことばにちからを入れてそういうと、爺さんのほうへ詰め寄った。  私はそれにたいして相手がなんと答えるか、思わず電柱のかげできき耳を立てた。    第四章 訊 問     一 二人の証人  都築欣哉の命令で、新宿のカフェー・リラへ行った帰りみち、自動車のなかから山部という青年の姿を見つけた私は、あわてて江戸川で自動車を乗り棄《す》てた。そして、そっと彼のあとを尾行して、おでん屋の爺さんと彼との会話を途中まで盗みぎきした——。  そこまでは私として大成功だった。しかし、そのあとがいけなかった。おでん屋の爺さんがそろそろと私に不安を感じだしたのである。彼は山部から切り出されたいちばん重要な質問に答える前に、じっと私の顔を真正面からにらみすえた。  爺さんは私がその場を立ち去るまでは、梃《てこ》でも口を開くまいという気配を示しながら、露骨な視線でじろじろと反抗的に私の姿をながめ回すのである。  こういうことにはいたって不慣れな私は、相手にさとられたと思うと、もうそれ以上ずうずうしく頑張《がんば》っていることはできなかった。  私は耳の付け根まで真紅《まつか》に染めながら、それでもなるべくさり気ない様子を示しながら、そろそろと電柱の側を離れるとわざと彼らの前を通り抜けて行った。爺さんはまだ露骨な視線で私の一挙一動を追っている。爺さんの態度に初めて気づいたものか、山部という青年も、ありありと敵意をふくんだまなざしで私の横顔をのぞきこんでいた。  私はそうした二人の視線に追い立てられるように、背中をむずむずさせながら、彼らのわきを通り過ぎると、大急ぎで第一の横町を江戸川のほうへ回った。  しかし、さてこれからどうしたものだろう。なんといっても、いちばんかんじんなあの話の続きを聞くことができなかったのは残念である。爺さんの様子では、あきらかに遠山静江の行方を知っているらしいのだ。私がもっとこうした事件について経験家だったら、こんなへまな真似はせずに、このあたえられた機会をしっかりつかむことができたろう。しかし、なんといっても私は素人《しろうと》である。そう容易に秘密の一端をつかむことができると思っていたのがそもそもまちがっていたのだろう。  私は江戸川辺まで出ると、さてどうしようかとあたりを見回した。大塚署はつい眼と鼻の先である。自動車に乗って行けば、ちょうどいい時刻になるだろう。しかし、私はどうしても、今の二人のことが気になって仕方がなかった。そこで江戸川辺に沿って、もう一度江戸川橋まで来ると、橋を渡って反対がわの袂からそっとさっきの横町をのぞいてみた。しかし内心予期したとおり、そこには組立てかけたおでん屋の屋台があるばかりで、二人の姿はどこにも見えなかった。思うに、私が立ち去ったあとで、大急ぎで相談をまとめた二人は二度と邪魔のはいらぬうちに、どこかへ立ち去ったのだろう。  行く先は——?  いうまでもなく遠山静江のかくれている場所にちがいない。私はもう一度引き返して、その付近で様子をたずねてみようかと思った。しかし、考えてみれば、そういうことは、いつだってできることだし、また、私のような素人がやるよりも、その道の経験家にまかせたほうが成功しそうに思われたので、とりあえず都築との約束をまもるつもりで私は通りかかったタキシーを呼び止めた。  私が大塚署にはいって行くと、都築欣哉はすでに来ていた。彼は私の顔を見ると、にこにこと笑いながら、 「どうだったね」  といきなりたずねかけたが、すぐ思いなおしたように、 「よしよし、委細はあとで聞くことにしよう。それより今、服部清二が刑事に連れられてやって来ているのだよ」  といった。 「服部清二——? あの白鳥芙蓉となんだったという青年かい?」 「フム、そうだ。なにしろ、あの帽子というりっぱな証拠を残して行ったものだから、警察では第一の嫌疑者に挙げているのだ」  そういいながら、彼はふと思い出したように、かたわらに立っていた中年の紳士をふりかえると、 「ああ、君に紹介しておこう。こちらが軽部謙吉氏——、新井巡査と共にこの事件を発見された方だ。こちらはぼくの友人で、那珂省造という小説家です」  といって紹介した。  軽部謙吉氏は都築とすでに心やすくなっていたものと見えて、私にも人なつこい微笑をうかべながらいんぎんに頭を下げた。色の白い、鼻下に美しい髭《ひげ》を生やした好男子で、がっしりとした体格をしている。心持ち顎《あご》の張っているのが、いかにも意志の強い人物らしく見せていた。見たところ三十六、七にしか見えぬがいったいが好男子であるから、事実は二つ三つ上かもしれない。 「お名前はかねがね雑誌などで拝見しています。こんどはおもしろい材料がおできになったでしょう」  軽部謙吉は口もとに和《なご》やかな微笑をうかべながらお世辞をいった。 「どういたしまして、いっこう畑ちがいで……」  私たちがそんな話をしているところへ、さっき別れたばかりの篠山検事がはいって来た。 「ああ、こちらにいたのですか。そろそろ服部清二の訊問《じんもん》を始めようと思うのですが、お立ち会いになりますか」 「そうですね。そうしていただければありがたいのですが」 「では、すぐ始めましょう。ええ? 那珂さん? いいでしょう。軽部さんはしばらく待っていてください。なに、すぐですよ。なるべく手間を取らせないようにしますから」  そこで私たちは、軽部謙吉氏だけを残して別室へはいって行った。そこではもう速記の用意もできていて、いつ訊問が始まってもいいようにできていた。部屋の中には署長を初め、後で知ったのだが、江口捜査課長、その他その筋の重立った人々がいかめしい顔をしてひかえている。訊問は主として篠山検事がやるらしい。  やがて検事が合図をすると、扉が開いて、真っ蒼《さお》な顔をした青年が、刑事に手を引かれるようにして、おずおずと中へはいって来た。彼は部屋の中の空気に、早くも気を呑まれたように、こまかく身体をふるわせていたが、やがて刑事に前へ突き出されて恐る恐る検事の前へ立った。  見たところ二十四、五の、いかにもお坊ちゃんお坊ちゃんとした意志の弱そうな青年である。不眠のためか、眼が落ち凹《くぼ》んで、頬《ほお》がげっそりとこけている。朝からまだ頭髪にも手を入れなかったものと見えて、油気のない髪の毛がばさばさと額にもつれかかっていた。 「服部清二というのは君のことだね」  篠山検事は相手のようすをゆっくりとながめておいてから、とつぜんそう切り出した。 「ハ、ハイ、ぼ、ぼく服部清二です」  服部はおずおずと眼を伏せたまま、消え入りそうな声でそう答えた。検事はその眼のなかをじっとのぞきこみながら、 「君はなぜ、ここへ呼び出されたか、その理由を知っているだろうな」 「ハ、ハイ、それがその……」  服部は床の上に眼を落としたまま、口の中でなにかわけのわからぬことをつぶやいている。 「はっきりいいたまえ、本当のことをいわぬと君はあとあとまで迷惑するよ。ではぼくのほうからたずねるが、君は昨夜八時ごろから一時ごろまで、どこにいたんだね」  服部はそれにたいして、はっきりと答えようとはしなかった。彼は別に強情に訊問に反抗しているのではなくて、あまりのことに気が顛倒《てんとう》していて、どういうふうに答えたらいいのか、それがよくわからぬらしい。検事は、しかし相手の煮え切らぬ様子に業を煮やしたものか、 「よろしい。君があくまで強情を張るなら、君に会わせる人がある」  そういうと、かたわらにいた刑事をふりかえって、なにごとかをささやいていた。刑事はうなずいてすぐ部屋を出て行ったが、間もなく、酒屋の若い衆のような男を連れてはいって来た。 「君はここにいる青年を知っているだろうな」  と篠山検事。 「ヘ、ヘイ、よくぞんじております。ときどき白鳥さんのお屋敷でお見かけいたしましたので」 「で、いちばん最後に、この人を見たのはいつだったね」 「ヘイ、昨晩でございます。昨晩の八時ごろ、ご用をうけたまわっておりましたウイスキーを持ってまいりますと、この方が白鳥さんの宅の奥座敷にいらっしゃいましたので……」 「それからどうしたね」 「どうもいたしやしません。台所のほうからはいって行きましたが、女中さんは留守《るす》だとかいいながら、この方が自分で立って来てウイスキーの瓶をお受け取りになりましたので……。それきりでございます」 「よろしい。さがってよろしい」  篠山検事はそこで刑事を呼ぶと、もう一度なにごとかをささやいていた。すると、すぐ刑事は、酒屋の若い衆を連れて出てそれと入れ違いに、四十がらみの人の好さそうなおかみさんを連れて入って来た。その女の顔を見ると、服部清二も思わず顔色を変えて、二、三歩後へよろめいた。 「お前さんが、服部君の下宿している宿のおかみさんだね」 「さようでございます」  おかみさんはわりに悪びれない態度で答えた。 「昨夜、服部君が帰ったのは何時ごろのことだったね」 「ハイ、一時過ぎ——、二時近くでございましたでしょうか」 「そのとき、服部君はどういうようすだったね」 「ハイ、なんだかひどく取り乱した恰好《かつこう》で……雨の降るなかを帽子もかぶらず、びしょぬれでございまして……」 「なに? 帽子をかぶっていなかったって? それはたしかかね? おかみさん?」  なんと思ったのか、そのとき横からとつぜん、都築がそう口を出した。 「ハイ、たしかでございますとも、……わたくしそのとき、『まア雨の降るのに帽子もかぶらないで、どうしたんです』とそう服部さんにたずねたくらいでございますもの」 「フーム、それで服部君はなんと答えたね」  と篠山検事。 「いいえ、別になんともおっしゃいませんでした。なんだかひどく酔っていらっしゃるようすで、そばへよるとプンと酒臭い匂《にお》いがいたしましたので、わたくし二階までお連れすると、そのまま階下《した》へ降りて寝ましたのでございます。なにしろ遅うございましたので」 「酒臭い匂いがした? 服部君はそのとき、ひどく酒臭い匂いがしたというのだね」  都築はまたしても横からそう口を出した。 「ハイ、それはもう……真正面に顔を向けられないくらいでございました」 「時に、おかみさんの家はどこだっけな」 「麹町《こうじまち》の三番町でございます。三番町の四十七番で……」 「そう、ありがとう」  都築の質問が終わると、下宿のおかみさんはまた別室へ下って行った。彼女の姿が見えなくなると篠山検事はあらためて服部の方をふりかえった。 「どうだね。酒屋の小僧の証言によると、八時ごろ君は白鳥芙蓉の家にいたというじゃないか。それから二時ごろ下宿に帰って来るまで、君はどこにいたんだね」 「ハイ、では申しあげます」  服部は証人の取り調べが行われている間に、いくぶん心の余裕を取り戻したのだろう。とつぜんはっきりとした口調《くちよう》でそう答えた。     二 抱水クロラール 「私はその間中、ずっと白鳥芙蓉の家のなかにいました」  服部は蒼白《あおじろ》い面に一度決心の色をうかべると、きっぱりとそういい切った。それを聞くと、そばにい合わせた連中は一種の緊張した面持ちをして、探るような眼でじっと相手の顔をのぞきこんだ。八時から二時ごろ下宿へ帰るまで、ずっと白鳥芙蓉の家にいた——? それは取りもなおさず彼が犯人であることを物語っているのではなかろうか。とすれば、彼は早くも観念して、自分の犯行を自白しようとしているのだろうか。 「フム、八時からずっと白鳥芙蓉の家にいた? すると、君はあの犯罪の行われたのを知っているわけだね」 「ところが知らないのです。私は眠っていましたから」 「なに? 眠っていた?」 「そうです。こんなことを申し上げてほんとうになさるかどうか、それはあなたがたのお勝手ですが、事実私は眠っていたのです。だから、いつ、だれに白鳥芙蓉が殺されたのか私は少しも知りません」 「フム、君の話はどうも奇妙でよくわれわれには呑《の》みこめない。もう少しくわしく話してくれたまえ」 「では、最初から申し上げましょう」  服部清二はしばらく考えをまとめるように宙に眼をやっていたが、やがてぼつぼつと語り始めた。 「昨夜、八時ごろ、私は白鳥芙蓉の宅を訪問しました。別に約束があったわけではありませんが、時々とつぜん訪問した例もありますので、昨夜もふいに行ったのです。私の顔を見ると白鳥芙蓉はなんだか困ったような顔をしていましたが。それでも帰れとはいいかねたのでしょう。まアお上がりなさいと申しました。で、私は相手の様子をたいして気にも止めず座敷へ上がりこんだのです」 「そのとき、君はどこから上がりました? 玄関からですか」  と都築は早口でそうさえぎった。 「いいえ、座敷の縁側からです。最初玄関から声をかけたが返事がなかったので、庭から座敷のほうへ回ったのです。で、上がりこんでしばらく話をしているところへ、台所へ酒屋からウイスキーの瓶をとどけて来たので、二人でしばらくそれを飲んでいました。するとどうしたものか急に眠くなってそのまま寝てしまったのです」 「ほほう、それはおかしいね。君はそんなに酒に弱いのかね」 「いいえ、決してそうじゃありません。しかし、昨夜はどうしたものか、四、五杯も飲んでいるうちに、どうにもたまらなくなってしまったものです。今から考えると、どうも酒のせいだけではないように思われて仕方がありません」 「フム、するとなにか麻酔剤でも飲まされたと思うのかね。白鳥芙蓉になにかそんなようすでも見えていたのかね」 「これはぼくの考えだけですから、たしかにそうとは申しあげられません。でも、昨夜の白鳥芙蓉はいつもとはちがっていました。なんだか気になることがあるようすで話をしていても落ち着きがなく、なんべんもなんべんも席を立ったりしていました。そうしているうちに私は眠くなって、……今でもたしかに覚えているのは最後に飲んだウイスキーが、なんだか舌を刺すように苦くてあわててもう一杯ついで飲みました。すると間もなく眠くなって……」 「フム、それで……」 「それから、どのくらい眠ったのか、眼が覚めたとき、私はなんだか嘘《うそ》のような気がしました。なにしろあたりは真っ暗だし、家の中はしんとしているし……、でも、ようやく白鳥芙蓉の家の中だと気がつくと私はあわてて飛び起きました。見るとやっぱりさっきの座敷のなかです。マッチを擦《す》って腕時計を見ると、もうかれこれ一時、それにしても私を放って置いて白鳥芙蓉はどこへ行ったのだろうと、かねてようすを知っている屋敷のなかのことですから、手さぐりで二階の化粧部屋へはいって行ったのです。そしてそこで初めて電気をつけて見ますと、あのありさまで……」  服部はさすがにそれを思い出すと、いやな気持ちになるらしく、心持ち眉をひそめた。 「フム、それでどうしたね」 「これは大変だと思いました。それからぐずぐずしていると係り合いになるぞと考えました。で、あわてて電気を消しておいて部屋から飛びだしたのです。と、ちょうどそのとき、玄関の方で人声がします。見つけられたら大変だと思ったので、私は廊下の隅にじっとうずくまっていました。すると、間もなく二人の人が上がって来て、例の化粧部屋へはいって行きましたので、とっさの考えで私は扉に錠をおろすと、そのまま外へ飛びだしたのです」 「君はその部屋の鍵《かぎ》を持っていたのかね」 「いいえ、部屋へはいる間に、鍵孔に鍵がはまったままになっていたことを思い出したからです。でもそのときは、そんなふうに考えたわけではありません。まるで無我夢中でした。ただ恐ろしいのと、早く逃げ出したいのとで……」 「君は今、二人の人を一室に押し込めておいて、そのままとびだしたといったが、玄関にかけておいた帽子をかぶって行ったのじゃないのかね」 「ハイ、そのように覚えています。しかし、結局またどこかへ置いて来たのでしょう。今朝になってみると帽子がありませんでしたから。でも、靴はまちがいなく自分のをはいていましたから、座敷から抜け出たのでしょう。なにしろよほど気が顛倒《てんとう》していたと見えて、それから以後のことは少しも覚えていないのです。今朝になって、それでもよく下宿へ帰れたものだと思ったくらいで、どうして帰ったのやら、少しも覚えておりません。ただ、どこかの暗闇《くらやみ》を一心に走っている自分の姿が眼にうかぶくらいのものです」  そういってから、彼はほっとしたように蒼白い額に手をやってため息を吐《つ》いた。彼の語るようすには、別に嘘を吐いていると思われる節はなかった。しかし、八時から一時ごろまで眠っていたというのが、あまりおあつらえ向きで、どうも信じがたいように思われる。検事もそのことを考えたのだろう。 「君の話はなかなか筋道が立っていておもしろいが、どうもおかしなところがあるね。たとえば、わずかの酒で君が酔っ払って眠るなんて……」  その時である。都築は手帳を裂いてなにかさらさらと書いていたが、それになにか小さな瓶のようなものをくるむと、それをそっと検事の手に渡した。検事はそれを開いて読み、そしてその瓶をながめると、びっくりしたように、 「なんだって? 君はいったいどこでこれを発見したのだね」  とたずねた。 「あの座敷の縁側の下で」  都築はさり気ない顔つきでそう答えた。検事はしばらく当惑したように、その二つを見つめていたが、やがてそれをつぎからつぎへとその筋の人たちの間に回した。みんなそれを見ると、ちょっと驚いたように都築の顔をふりかえった。最後にそれを私も見た。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]  抱水クロラール——かなり強烈なる睡眠剤にして舌を刺すごとき苦味あり、この瓶にまだ臭気の失せぬところを見れば、使用後いくばくも経過せざるものとおぼゆ。 [#ここで字下げ終わり]  そしてその小さな瓶のレッテルには、   「抱水クロラール」  と印刷してあった。    第五章 父と娘     一 詩人白鳥芙蓉の本名  それから後のことはあまりくだくだしく述べることをよそう。一通り訊問《じんもん》が済むと、篠山検事は例の帽子を取り出して服部清二に見せた。服部はそれを手に取り上げると、少しも悪びれるところなく、たしかに自分の帽子にちがいないと明言した。こうして一応服部の訊問が済むと、そのあとで軽部謙吉氏の証言がもう一度行われた。しかし、それらのことは、前に述べたとおりで、少しもちがったところはないから、ここではわざとはぶくことにする。  私にとってはたしかにおもしろい経験であった。今まで新聞の上でのみ知っていた世界を、ちょくせつ自分からのぞいてみると、そこにはまた、まったく変わった面目があるのだった。そこで私は、篠山検事に厚く礼を述べると、都築欣哉と肩をならべて警察署を出た。  時刻はちょうど六時少し前であった。小日向台《こびなただい》町の兵器廠《へいきしよう》の丘には、そろそろと黄昏《たそがれ》の色が降りかけている。ほの明るく灯《ひ》のついた鳩山邸《はとやまてい》が屹然《きつぜん》と眼の前にそびえて見えた。私はどこかでゆっくりと飯を食いながら、今日の冒険を都築に話そうと思った。そこで冗口《むだぐち》をたたきながら、ぶらぶらと歩いていると、うしろから急ぎ足に近づいてくる足音がきこえた。ふりかえって見ると軽部謙吉氏である。彼は例の人なつっこい微笑をうかべながら、私たちに追いつくと、 「今お帰りですか、どうもご苦労さま」  と愛想のいい挨拶《あいさつ》をした。 「やあ、あなたこそ、とんだ事件に引っかかって災難ですな」 「ほんとうですよ。おかげで今日は一日棒に振ってしまいました」  軽部謙吉氏は私たちと肩をならべて歩きながら、 「どうもわからんもんですなあ、人間というやつは——」  と、なんとなく感慨めいた口調でいった。  そうして私たちは歩きながら、いろいろと今度の事件に関して思い思いの意見を吐いていたが、そのうちに都築欣哉はふと思いだしたように、 「それはそうと、あなたにおたずねしてみたいと思っていたのですが、あの帽子のことですがね」 「はあ、あの帽子について何か疑問がおありですか」 「いや、疑問というほどでもないのですがね。あなたが最初玄関でごらんになった帽子、今警察にあるやつとはたしかに同じものですか」 「どうしてですか」  軽部謙吉氏は不審そうに、 「私は初めてあの帽子が玄関にかかっているのを見たとき、中を調べてみたのですよ。S・H——たしかにあの頭文字《かしらもじ》にちがいありませんでした。もっとも同じボルサリノで、同じ頭文字のある帽子が二つあるなら格別ですがね」 「そうですか、じゃやっぱりそうでしょう。それに服部清二は下宿へ帰ったとき帽子をかぶっていなかったという話ですから、それにまちがいありますまい。それにしても、いったん玄関でかぶった帽子を、また座敷のほうへ忘れるなんて、あの男もずいぶんどうかしていますね」  都築欣哉はなにか別のことを考えているらしく、爪《つめ》をかみながらそんなことをいった。 「そりゃ、あんな際ですから……、しかし、服部という青年は座敷で帽子を脱いだのを覚えていないのですか」 「覚えていないけれど、多分そうしたのだろうというのです。なにしろ、下宿に帰った時にはひどく酔っ払っていたそうで、どうして帰ったか、それすらよく覚えていないというのですから」 「なるほどねえ」  軽部謙吉氏は格別興味もなさそうにそう答えたが、それについでだれも口を開く者がなかったので、偶然そこに沈黙が落ちこんできた。そうして三人三様の思いを抱きながら、しばらく無言で歩いていたが、とつぜんなにを思ったのか都築がふと口を開いた。 「あなたは農林省へ勤めていらっしゃるのでしたね。なら、坂本をごぞんじでしょうね。坂本義臣です」  とまったく別のことをいいだした。 「ええ、ぞんじておりますとも……、私のほうの大将ですから。あなたもごぞんじですか」 「ええ、兄貴の碁敵《ごかたき》でしてね、たしか美しい令嬢があったはずだが……」 「寿々子さんですか、実は……」  軽部謙吉氏はそこでちょっと躊躇《ちゆうちよ》していたが、 「近々私はあの令嬢と結婚することになっているのでして……」 「おや、それはそれは」  都築はまったく意外だというような顔をして足を止めたが、 「それはおめでとう」 「いえ、あの、なに……」  軽部氏は正直に顔を赧《あか》らめて、どぎまぎしていたが、 「じゃ私は、ここで失敬します。ちょっと友人のところへ寄ることになっていますから」  そういい残すと、ろくろく挨拶もせずにあたふたと折りからやって来た電車にとび乗った。 「おもしろい男だな。あれでやっぱりきまりが悪かったんだな」  私はその後ろ姿をおもしろく見送りながらそういったが、都築はなにか他のことを考えているらしく、それに返事もしなかった。 「軽部氏はまちがっている」  しばらく彼は無言で歩いていたが、ふいになにか思いだしたものか、そんなことをいった。 「なに? なんのことだね」 「あの帽子のことさ。軽部氏が玄関で見た帽子と、今警察にある帽子とはまったく別物にちがいないんだ」 「君はさっきからいやに帽子に拘泥《こうでい》しているね。もし二つの帽子が別物だとすればどういうことになるんだね」 「大変なことになるのさ。なぜ軽部氏があんなに同じものだといい張るのかわからない」 「そりゃ、暗がりだから先生見ちがったのかもしれないぜ、S・H——、と、S・Hに似た他の頭文字はなんだろうな。しかし君はどうして、二つの帽子が別物だと極《き》めているのだね」 「ウン、なんでもないさ。今警察にある帽子は階下の座敷の床にあったんだぜ。服部清二が靴をはくときに脱いで置いたとしたら、縁側になけりゃならんはずだからね。それに服部は庭を回って座敷から上がったというじゃないか。まさか帽子だけをわざわざ玄関までかけに行くはずがないからね」 「ウム、すると、君はその帽子こそ犯人のかぶって来たものかもしれないというのだね。しかしそれはどうなったろう」 「服部がかぶって出たのさ。そして下宿へ帰る途中どこかで失くしたのさ。その帽子が出てくれば、きっと犯人がわかるにちがいないよ」  そこで都築はふと気がついたように、足を止めてあたりを見回したが、 「おや、とんだところまで歩いてしまったね。どうだ支那料理でも食いに行こうか」 「よかろう。支那料理はどこだね」 「虎《とら》の門の晩翠軒《ばんすいけん》にしよう。あすこなら話をするのに都合がいいから」  そこで私たちは自動車を飛ばして虎の門へ向かった。私たちは二人ともあまり酒は飲めないほうだったが、そのかわり食うことにおいては人後に落ちない。しばらくは口もきかずにむさぼり食ったが、ようやく食事が済むと、 「ああ、食った、食った。これでようやく気が落ち着いたよ」  と、都築は張り出し窓にもたれかかって、 「さあ、これからそろそろ君の冒険談を聞こうかな」  と笑った。  そこで私はカフェー・リラの一件を細大もらさず都築に向かって物語った。そして最後に、 「それで、その女だがね、どうもぼくには女中のおすみのように思われてならないんだ」  とつけくわえた。都築は黙って聞いていたが、 「そうだろう。ぼくもあの羽織をあとから着せたのはおすみだろうと思っていたよ」 「え? どうして?」 「別に不思議はないさ。あの羽織が白鳥芙蓉のものでなかったら、おすみは気がつくはずだからね。で、あれが白鳥芙蓉の羽織とすれば、それを着て外出することのできるのは、あの家の者のほかにないはずだからね」 「しかし、なぜおすみは、主人の羽織なんか着て出たんだろうな」 「白鳥芙蓉の名を騙《かた》って男と会うためさ。たぶん彼女は内緒でその羽織を持ちだしたにちがいないよ。それだから、家へ帰って主人が殺されているのを見ると、あわててそれを主人の死骸《しがい》に着せておいたのだろう。——しかし、なぜ白鳥芙蓉の名を騙ったのか、また相手の男というのは何者か、それはぼくにもまだわからない」 「ぼくはおすみが犯人じゃないかと思うな。時刻もちょうどあっているし、なにかの理由で主人を殺して、その後で羽織を着せたのじゃないかな」 「そうかもしれない。今はだれをも疑わねばならぬ時だからね」 「それはそうと、しかし、君はどうしてあのカフェー・リラに目をつけたんだね」  私はふと、さっきからの疑問を口に出してそう訊《き》いた。 「ああ、そのことか。打ち明ければなんでもないよ。手品の種明かしさ」  そういいながら、彼はまだ新しい伝票をポケットからさがし出した。それはカフェー・リラの伝票で、日付は昨日のものになっていた。 「あの羽織の袂《たもと》の中にあったんだよ。羽織と着物の間にはさまっていたもんだから、警察でも見おとしたのさ」  なるほど話を聞いてみると手品の種明かしにちがいなかった。それでも私は感心しながら、 「ときにもう一つ、話があるんだがねえ」  と、例の山部の一件を切り出した。 「フム、なるほど、そいつは残念なことをしたな。すると、遠山静江はあれからずっと家へ帰らないんだな」 「そうらしいんだ。そしてその行方をおでん屋の爺さんが知っているらしいんだが、どうも怪しまれちゃったものだからね」 「まあ、いいや、どうせそのお爺さんは毎晩同じ場所へ店を出すんだろうから、急がなくてもいいわけだ」そういいながら、彼はふと思いだしたように腕時計をながめたが、 「もう八時過ぎだな、ちょっと電話をかけて来る」  とそういって立ち上がった。私はそのあとでとつおいついろいろなことを考えていたが、ふと、例のダイヤモンドのことを思いだした。都築はそれを見せてもらいに大塚署へ行ったはずだが、どうしたのだろう、私の行く前にすでにその用事が済んだのだろうかと、そんなことを考えているところへ都築が帰って来た。 「どこへ電話をかけたのだね」 「沖井秘密探偵事務所さ」 「へえ、なにか秘密探偵に用事があるのかね」 「ウン、白鳥芙蓉の身許《みもと》を調べてもらおうと思ってね。こんな場合秘密探偵は便利だよ。事件が起きてから調べるのじゃなくて、ちょっと知名な人物なら、あらかじめ身許が調査してあって、すぐ撰《よ》り出せるように整理してあるんだからね。この点、警察なんかより行きとどいているわけだ。ぼくはきょう家を出がけに白鳥芙蓉のことを頼んでおいたのだが、今ようやく調べ上がって家の方へとどけようとしたところだそうだ。それでこちらへ持って来てもらうように頼んだよ」 「ほほう、そんな便利なものがあるのかね。ではわれわれもうかつに行動できないわけだね」 「そうさ、君なんかもいい気になっていると、いつの間にか尻尾《しつぽ》を押さえられているぜ」  都築はそういって笑ったが、そのとき私はふと例のダイヤモンドのことをきりだした。 「ウン、見せてもらったよ。そうとう高価なものらしい。しかし、ぼくの注意を惹《ひ》いたのは、その価額より、どうしてあの頸飾《くびかざ》りが引き千切られたかというその点だ。考えてみたまえ。それは事件よりは少なくとも二十分、あるいはもっともっと前に千切れて飛んだのかもしれないんだからね」 「ぼくも、その解釈に苦しんでいるんだ。頸飾りが千切れて、窓の外へ飛ぶほどのなにごとかがあった。そしてそれから二十分もたってから殺人が行われている。しかもその間にだれもダイヤモンドを拾いに出る者がなかったというのだからね」  そんなことを話しているところへ、沖井探偵事務所から使いが来た。都築は女中から手渡された部厚な封筒を手にした時、さすがに昂奮《こうふん》の色をかくすことはできなかった。彼はやや血走っていると思われるまなざしでじっとその封筒を見つめたが、 「君、賭《かけ》をしようか」  と上ずった声音《こわね》でそういった。 「昨夜、君と芙蓉酒場へ行ったとき、ぼくは何気なく、白鳥芙蓉という名について、あの女のことでなしに、もっとほかになにか思い当たることはないかと君にたずねたね。あのときぼくは二十年前の詩人白鳥芙蓉のことを考えていたのさ。ほら、あの女の家から発見された詩集『やどり木』の著者さ——、で、ぼくは必ずこの事件には、あの二十年前の詩人白鳥芙蓉が関係していると思うのだが、そして実は両方の白鳥芙蓉について調査をたのんだのだが、はたしてこの二人に何か関係があるかないか——」 「ぼくにはわからない。ぼくは二十年前の詩人白鳥芙蓉なるものをよく知らないんだからね」  私は弁解するようにいった。 「よろしい、開いてみよう」  彼は決心したように、いきおいよくピリピリと封を切った。ああその中身ほどわれわれを驚かしたことは、この事件を通じてほかになかった。詩人白鳥芙蓉——、それはなんという意外な人物であったろうか。  私はここに、沖井秘密探偵事務所からの報告を簡単に書写しておこう。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]   御訊《オタズ》ネノ前女優白鳥芙蓉ノ略歴。  一、本名、木沢美智子。  一、明治二十五年茨城県助川町ノ商家ニ産ル。(従ッテ本年三十九歳ノ筈《ハズ》ナリ)  一、明治四十年|頃《ゴロ》上京、当時既ニ両親ナク親戚《シンセキ》ノ家ニ寄寓《キグウ》ス。  一、明治四十四年ヨリ大正二年ニカケテ詩人白鳥芙蓉ト同棲《ドウセイ》ス。  一、大正三年、詩人白鳥芙蓉ト離別ス。他ニ男ガ出来テ駈落《カケオチ》セリトノ説アリ。  一、爾来《ジライ》、大正十二年頃|迄《マデ》消息不明。  一、大正十三年、突如白鳥芙蓉ト名乗リテ女優トナリ、新劇団、芙蓉座ヲ組織ス、男ニ関シテ 幾多ノ風説ヲ産ム。  一、昭和三年頃、劇団ヲ解散シ暫《シバラ》ク消息ヲ消ス。  一、昭和五年、突如銀座ニ芙蓉酒場ヲ開店ス。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]以 上    詩人白鳥芙蓉ノ件。   本名、遠山梧郎。   ××大学現教授。   住居、小石川区|白山御殿《ハクサンゴテン》町三ノ六四。 [#地付き]以 上   「ええ、ええ、ええ、ええ」  私たちはこの最後の項を読んだとき、思わずいっせいにさけびごえをあげた。 「なんだって、じゃ、あの遠山静江の父親というのが昔の白鳥芙蓉だったんだね」  そして二人は長いこと、黙ってさぐり合うように顔を見合わせていたのだった。     二 陋巷にて  その翌日、私はなんとなく重い頭を抱えて床をはなれた。夜中、私は物くるわしい夢を見続けたような気がする。あの謹厳で有名な遠山教授——しばしば新聞などで、名論説を吐いている知名の学者——、私はその人の背後にかくされている汚点をのぞかされて、なんとなく気ちがいじみた妄想《もうそう》にとらえられねばならなかった。  かつての愛人だった女——その女と自分の娘が一人の男をうばい合っている。しかも、そのために恐ろしい殺人事件さえも捲《ま》き起こしているのだ。いったい、遠山教授はそのことを知っているのだろうか。  私は物憂い憂鬱《ゆううつ》におさえつけられながら、すすまぬ気持ちで新聞を手に取り上げた。と、たちまちはっとした。そこには服部清二を中心に、白鳥芙蓉と遠山静江の三人の写真がれいれいしくかかげてあった。そして服部をなかにおいての、二人の女の恋愛|葛藤《かつとう》をいかにも新聞記者らしい筆つきで達者に書いてあった。私はなんとなくおとなげない気持ちはしながらも、その記事によってはじめて、遠山静江という少女の日常生活を知ることができた。新聞には露骨に不良少女という言葉がつかってある。  厳格な家庭より産まれた不良少女——そんなふうの文字がつかってあった。そしてその記事によると、彼女の行方はいまだにわからぬらしい。遠山家を訪問した新聞記者の報道によると、遠山教授は病気と称してだれにも逢《あ》わないらしく、教授のかわりに書生代わりの山部時彦という青年が出ていっさいの応接に当たっているが彼も口を緘《とざ》して多くを語らぬ——云々《うんぬん》。  この記事によると、山部(時彦という名はこのときはじめて私も知ったのである)という青年は遠山家の書生であるらしい。なるほど、それによってはじめて彼が真剣に遠山静江の安否を気づかっていることもわかった。  新聞にはそのほか、支那蕎麦屋《しなそばや》、藤田大五郎が捕えられたことも報道してあった。そして彼の家を捜索した結果、数多《あまた》のダイヤモンドが発見されたことがつけくわえてあった。しかし、それについて、彼はただ路上に拾ったのにすぎなく、それ以上のことはなにごとも知らぬと頑張《がんば》っている、という話であった。  その日、一日中私はこの新聞記事に悩まされながら、なにごとをするでもなくうつらうつらと過ごしていた。すると夕方になって都築から電話がかかってきた。用件は、矢来下まで大至急に来いということであった。  それ以上のことはなんともいわなかった。  私はいったいなにごとが起きたのだろうと思案しながら、それでもすぐに着物を着かえると、つい眼と鼻の間の矢来下へ駆けつけた。  見ると都築はステッキを握って、ぼんやりと飾り窓をのぞきこんでいる。私が近づいて行くと、すぐそこを離れてブラブラ歩き出した。 「なにかあるのかね」私は相手がなにもいわないので、たまりかねてこちらからこうきりだした。 「ウム、遠山静江のいどころがわかったんだ。で、これから行って様子を見ようと思うんだがね」 「ほほう。どこにいたんだね」 「やはり、君のいったおでん屋の爺さんの家なんだ」  彼は私の驚くのをおさえながら、 「あの晩、遠山静江は江戸川の自動電話から銀座の芙蓉酒場へ電話をかけたんだね。それは君が立ち聞きしてくれたとおりだ。それでぼくの思うのに、彼女はやはり白鳥芙蓉の屋敷からの帰りじゃないかと思うんだ。そうすると、白山御殿町へ帰るのは、あすこで乗り換えになる。そのときふと思いついて電話をかけたんだね、あの時、君も聞いていたろうが、山部時彦という青年は『待っていたまえ、すぐ行くから待っていたまえ』といっていたね。それで遠山静江は待っているつもりであすこに立っていたんだが、あまりの昂奮につい疲れ切ってあそこへ倒れてしまった。それをおでん屋の爺さんが見て、とりあえず自分の家へ連れて帰ったらしい。その後へ山部が駆けつけたということになるらしいんだね」 「フフン、しかし、君はだれに聞いたんだね。そんなことを……」 「爺さんのかみさんからさ。爺さんはなかなか侠気《きようき》のある男らしいが、婆《ばあ》さんというのが欲張りでね、金をつかませるとすぐべらべらしゃべったよ。おっとこの横町だっけ」  私たちは山吹町のとおりを左へ曲がると、せまいゴミゴミした一画へはいりこんだ。そこらには駄菓子屋だの、古本屋だのが軒をならべていて、せまい路《みち》には子供が溢《あふ》れるように遊んでいた。私たちはその町のなかの、荒物店の低い軒をくぐった。すると、すぐ奥から、なるほど欲張りらしい婆さんが出て来たが、都築の顔を見ると愛想笑いをしながら、 「さあ、どうぞ。今ちょうど眠っているところですよ」  といった。 「どうだね。加減は……」 「相かわらずうわごとばかり申しまして、ほんとに気味が悪いんですよ。さあ、どうぞ」  とせまい梯子段《はしごだん》のほうへ案内しながら、 「だれか来ましたら咳《せき》をしますから、窮屈でもしばらく押し入れへはいっていて下さいよ。でないと、爺さんに見つかると、どんなに叱られるかもしれませんので、ほんとに厄介者を担ぎこまれて弱ります」  私たちはギチギチと気味わるく鳴る梯子段を注意しながら上がって行った。と、そこは天井の低い、光線の通りのわるい、薄ぐらい部屋で、壁といわずべたべたといろんなポスターが一面にはりつけてあった。 「これだな、かくれろという押し入れは?」  都築にそういわれて、そのほうを見た私はたちまちうんざりした。汚い油染みた夜具が二、三枚、ぷんと鼻へきそうに積みかさねてある。そこらいっぱい、雨洩《あまも》りの汚点《しみ》だらけだ。こんなところへ押しこまれちゃたまらないと思っている、そのとき隣の部屋から、 「だあれ、そこに来たのは?」  と若い女の声がした。それを聞くと私は思わずどきりとした。そこで二人はじっと息を呑《の》みこんでいたが、それきりあとのことばがない。 「うわごとだよ」  そういいながら、都築は間の唐紙《からかみ》に手をかけると、そっとそれを細目に開いた。そこからのぞいてみると向こうは四畳半ほどの部屋で、そこに薄い不潔な夜具を敷いて、寝ている断髪の顔が見えた。天井からブラ下がっている氷嚢《ひようのう》は、もうすっかり氷が解けて、プラプラと軽そうにゆれている。  相手の眠っているのに安心した都築が、もう少し唐紙を開けようとしたときである。とつぜん、階下からはげしい咳払いが聞こえてきた。それを聞くと、二人はあわてて足音を盗みながら押し入れの中へかくれた。じっと息を殺していると、やがてギチギチと階段を上がって来る音が聞こえて、間もなく私たちの鼻の先をとおって一人の青年が隣の部屋へはいって行った。山部だ! 山部時彦だった。彼は隣室へはいると、氷を取り換えているらしく、しばらくごそごそとうごき回る音がしていたが、やがてそれも済んだのか、ぴったりと物音が聞こえなくなった。と、思う間もなく、すうすうと鼻をすする音が聞こえてきた。  泣いているのだ。山部が泣いているのだ。そう気がつくと、私は急に眼頭《めがしら》が熱くなってくるような気がした。 「だあれ、そこにいるのは!」  とつぜん、さっきと同じ声が、しかし、今度は強い恐怖を帯びた調子でとつぜんそうさけんだ。 「ぼくだよ。山部だよ。心配しなくてもいいよ」  低い、あたりをはばかるような声で山部がそう答えた。と、ふいにどさりと夜具を跳《は》ね返す音がして、 「嘘吐《うそつ》き、嘘吐き、服部さんの嘘吐き——、あたしのだいじなだいじな頸飾りを、あんな女にやってしまうなんて……、ああ、あたし、口惜《くや》しい。あたしは口惜しい」 「ちがうよ、静イちゃん。服部じゃないよ。山部だよわからないのかなア。さア、起きていちゃ体に障るから寝ておいで。ね、寝ておいで。ぼくがついているから心配なんかいらないよ」  山部の声はすすり泣きに混じって、ときどき怪しくもつれた。 「いいえ、いいえ、嘘吐きだ。服部さんは嘘吐きだ。あたしをだまして頸飾りを巻き上げて、それをあんな女にくれてやるんだもの。ああ、ああ、あたしどうしたらいいか……」  だが、とつぜん、そこで彼女の声の調子はがらりとかわった。 「ホホホホ、いい気味、いい気味だわ、白鳥芙蓉が死んじゃった。アレ、あんな恐ろしい顔をして、……でも、いい気味だわ。え? なんですって? いいの、いいの。いわせてちょうだい。だれが聞いたってかまうもんか。あたしが殺したのよ。ええ、ええ、あたしが殺したのよ。あたしが白鳥芙蓉を殺してやったんだわ」 「およしったら、静イちゃん。およしよ。他人に聞こえたらどうするんだ。ええ困るなあ、そんなに昂奮しちゃ」  山部が無理やりに夜具を着せかけているらしい。しばらく、どたばたという物音が聞こえていたが、それでも静江は、それでまた眠りに落ちたらしい。山部は鼻をすすりながら、ため息まじりに、静かに夜具の上をたたいているらしかった。  そのとき、とつぜん、都築欣哉が静かな声音でいった。 「さあ、そろそろわれわれの出る幕だよ」  そういって、彼はがらりと押し入れの戸を開けた。と、隣の部屋ではぎくりとしたように身うごきをする音が聞こえる。    第六章 嫌疑者の整理     一 短刀を抜く  部屋の中はどんよりとした飴色《あめいろ》ににごっている。一歩そのなかに足を踏み入れると、むっとするような、熱っぽい臭《にお》いが鼻をうった。  山部は私たち二人の顔を見ると、まるで追いつめられた猛獣のような眼つきをした。都築はしかしそのほうには眼もくれず、にじり寄るようにして、遠山静江の枕下《まくらもと》まで行くと、そっとその顔に手をやってみた。 「大分ひどい熱だね」  遠山静江は熱にうかされて、真紅《まつか》な頬《ほお》をしていた。さっきの昂奮《こうふん》のために、神経を疲らせたものか、昏々《こんこん》として深い眠りに落ちていたが、時々苦しそうに薄い夜具の中で身悶《みもだ》えする。そのたびに汗臭い枕覆いの上にさらさらと短い髪の毛が揺れた。 「かわいそうに、大分苦しんだと見える」  都築はポケットの中から、白いハンカチを取り出すとていねいに手を拭《ぬぐ》いながら、初めて山部の方をふりかえった。山部は反抗にみちたまなざしでじっと都築の瞳《ひとみ》をにらみかえしていたが、別に逃げようともしなかった。かえって、きっと結んだ唇《くちびる》の尻《しり》には、冷笑するような皮肉なかげがふてぶてしくうかんでいた。 「山部君ですね」  都築は膝を向き変えると、おだやかな声音《こわね》でそう訊《たず》ねかけた。山部はそれに対して、ちょっと肩をゆすぶっただけで返事をしようともしなかった。都築はそれにもかまわず、ポケットからウエストミンスターをつまみ出すと、それに火をつけて、静かに紫色の煙を吐き出しながら、 「ごめんください。変なはいって来ようをしたものだから憤慨しているんでしょう。しかし、別に悪気があってやったわけじゃありませんよ。むしろ、あなたのとんでもないまちがいを、一刻も早く訂正してあげたいと思ったのですからね」 「あなたはいったいだれです。だれの許しを得てこの部屋にはいって来たのです」  山部ははじめて、ぶっきら棒に口を切ったが、そういいながら私の方を向いて、 「あなたはたしか、昨日江戸川まで私をつけて来た人ですね。じゃ、やはりあなたがたは警察の回し者だったんですね」  と、毒づくような物のいい方をした。そういわれると、私は耳の付け根まで真紅にならずにはいられなかった。山部はそれを見るといっそう小気味よさそうに、 「それでいったいどうしようというのですか。私を警察へ引っ張って行くというのですか。よろしい。私は逃げもかくれもしませんよ。いつでもお供しますから」 「まあ、君のようにそう早まっちゃ困るよ。ぼくはなにも警察へ引っ張って行くとはいやしない。それに、君は警察へ出なければならないようなことはなにもしていないじゃないか。もっとも……」  と都築はおだやかな眼もとに微笑をうかべながら、 「凶器をかくしたり、お巡りさんを殴ったりしたのは悪かったけれどね」  といって静かににんまりと笑った。それには、山部もちょっとひるんだように見えた。彼は黙って恐怖にみちた眼で都築の眼のなかをのぞきこんでいたが、やがてつとその眼をそらすと、肩をそびやかした。 「私が白鳥芙蓉を殺したのです。これだけいえば十分でしょう。さあ、私を警察へ連れて行ってください」 「つまらない犠牲的精神なんて放擲《ほうてき》したまえ。君は誤解しているんだよ。ぼくはただ、君の口から直接、あの夜の行動について聞きたいと思ってやって来ただけなんだよ」 「だからいってるじゃありませんか。ぼくが白鳥芙蓉を殺したのです。そして見回りの警官を殴って逃げ出したのです。それだけいえば十分じゃありませんか」 「なるほど、君はここにいる少女をかばっているんだね。しかし、そんなつまらないことはよしたまえ。無駄なことだから」 「なに? 無駄だって?」  山部の眼のなかには、そのときはじめて狂暴な光があらわれた。彼は、そのつぎのことばによっては、都築につかみかかりかねないようすを示した。 「そうさ。無駄だよ。第一、遠山静江自身になんの罪もないのだから」 「なんだって、静江さんになんの罪もないんだって?」  山部はがっくりと体を落とすと、ぜいぜいと肩で息をしながら、それでもじっと都築の顔から眼をはなそうとはしなかった。都築は相かわらずゆうゆうと煙草の煙を吐いている。 「そうさ。君は今朝の新聞を読まなかったかね。読んだのなら、白鳥芙蓉が殺されたのは十一時過ぎだということがわかるはずじゃないか。ところで、静江さんから君のところへ電話がかかったのはたしか十時二十五分ごろだった」 「しかし、しかし静江さん自身が——」  山部はそういいかけて、ふと気がついたように口をつぐんだ。と思うと、急にしらじらとして顔に冷笑をうかべて、 「あなたは私にかまをかけているのですね。いったい、私のところへ静江さんから電話がかかったことをどうして知っているのです」 「そんなことはどうでもよろしい。それに、君の口からいわなくても、ぼくたちはさっき、静江さん自身の口から、白鳥芙蓉を殺したという言葉を聞いたよ」 「押し入れのなかでですか」  山部は露骨に反抗を示しながらあざ笑うようにいった。 「そう押し入れのなかで」  と都築は相手の態度を意にも介さないもののごとく、 「しかし、人間の観念にはいろいろとまちがいの多いものだよ。たとえ、静江さんがいかに自分が白鳥芙蓉を殺したと思っていても、そりゃまちがいだ。とにかく彼女は絶対に犯人じゃないよ」  都築はそういいながら、おだやかな眼を、眠っている静江の方に向けて、 「ぼくはなぜ彼女がそんなにまちがって告白をするにいたったかも知っている。しかし、その前に、君の口から、あの夜のできごとをくわしく聞きたいのだ。ね、ぼくを信じてくれるだろう。さあ、話したまえ」  都築はそういってことばを切ると、うながすような眼つきで山部の顔を見た。山部はしばらく、都築と遠山静江の寝顔を等分に見ていたが、やがてその眼を自分の膝の上に落とした。そして低い声で、おそろしそうにたずねた。 「静江さんが犯人でないというのは本当でしょうね」 「本当だとも、だから、君はなにも恐れることはないのだ。さあ、話したまえ」 「そうですか、では話しましょう」  山部は静かに考えるふうで、窓の障子へ眼をやっていたが、 「そうです、あの晩十時半ちょっと前でした」  とぽつぽつ話し始めた。 「銀座の芙蓉酒場に私はいたのです。するとそこへ静江さんから電話がかかってきました。聞いてみると、今白鳥芙蓉を殺して来たところだというのです。なんだかあまりとつぜんなので、すぐには信じかねましたが、彼女の日ごろの性格といい、それに最近の状態から考えて、まんざら冗談とも思えない。それに電話の声が妙に気ちがいじみて真剣なので、私はひやりとしました。  聞いてみると、今江戸川の自動電話にいるというのです。とにかく私は真偽をたしかめなければならぬと思ったので、しばらくそこに待っているようにといいつけて、すぐ自動車でかけつけたのです。ところが江戸川まで来てみると、静江さんの姿は見えない。もしや白山御殿町の自宅へ帰ったのじゃないかと思って、すぐに帰って見たのですが、まだ帰っていないという話です。そのうちに帰って来るだろうと思って、一時間ばかり待っていましたが、なかなか帰っては来ません。  そうしているうちにも私の不安はだんだんたかまってきます。とうとう耐えかねた私は家をとびだして、豊坂の白鳥芙蓉の家へ行ったのです。時刻はちょうど十二時ごろでしたろうか。白鳥芙蓉の家は真っ暗で、人の気配もありません。それでいっそう私の不安をつのらせたのでした。とにかく中へはいってようすを見よう、もし見とがめられたところで、顔見知りのなかだし、それに白鳥芙蓉が生きているようなら、こんなありがたいことはない——そう思って私はまだ開いていた玄関からはいって行ったのです。  ところが私のそうした願いはすっかり裏切られてしまいました。二階の化粧部屋のなかで白鳥芙蓉は紅《あけ》に染まって死んでいるではありませんか。なかば予期していたことではありますが、私はそれを見ると鉄槌《てつつい》で頭をぶん殴られたような気がしました。しばらく私は呆然《ぼうぜん》としていましたが、気が落ち着いてくるにしたがって、第一に頭にうかんだのは、静江さんを救《たす》けねばならぬということです。で私はなにか彼女の残して行った証拠らしいものはないかと思って部屋のなかを見回しました。すると、まず第一に眼についたのが、静江さんのベレエです。それまでは私も、なにかのまちがいであってくれればいいと思っていたのですが、それを見るとどうしてもうたがわないわけにはまいりません。  静江さんはたしかにここへやって来たのだ。そして彼女のことばどおり白鳥芙蓉を殺したのだ——そう考えた私はやにわにそのベレエを取り上げるとポケットの中へねじこみました。そして、そのほかになにも遺留品のないことを見定めておいて、その部屋から抜け出そうとしたのですが、そのときふと眼についたのが凶器です。するとすぐ頭にうかんだのは指紋のことで、この凶器の柄《え》には、必ず静江さんの指紋がついているにちがいない、よし静江さんの指紋とはわからなくても、女の指紋であることはすぐわかるだろう——そう思ったものですから、私はそれを引き抜くと、そのままあの芙蓉屋敷をとびだしたのです。すると、表でバッタリと警官に出会ったので——」 「ありがとう」  都築はそこで相手のことばをさえぎると、 「そのあとは知っています。ところで、その凶器はどうしました」 「その晩、帰りみちに江戸川の大滝から投げこんでしまいました」 「そうですか、それは残念なことをしましたな」  都築はなにか考えるふうで、しきりに頭を撫《な》でつけていたが、ふと思いだしたように、 「しかし、君はそれらのことを静江さんに話をしましたか」 「いいえ、そんな暇はありません。その晩はとうとう静江さんは帰って来なかったし、昨日の午後、この家のお爺さんに連れられて、初めてここへやって来たときには、静江さんはすでにこのとおりで——、かえってそんな話をしないほうがいいだろうと思ったから、わざとひかえていたのです」 「そうでしょう。しかし、白鳥芙蓉は短刀で殺されたのだと聞いたら、静江さんはきっとびっくりするにちがいありませんよ」 「ええ? それはどういう意味です」  山部も私も思わず膝を前へのりだした。都築のいったことばの綾《あや》が、妙に私たちの気になったからである。     二 英国流決闘 「そうとも、もし静江さんが、白鳥芙蓉は毒殺されたのではなく、短刀で殺されたと知ったら、こんなに煩悶《はんもん》するのではなかったにちがいないよ」 「ナ、なんですって?」  とつぜん、おびえたような声がかたわらから湧《わ》き起こった。私はその声に、思わずぎくりとして腰をうかしかけた。それはいままで眠っているとばかり思っていた遠山静江だった。彼女は枕から少し頭をもたげて、不思議そうな、たずねるような眼つきで都築の顔を見つめた。その顔にはすっかり血の気が退《ひ》いて、蒼白《あおじろ》くさえざえとしていた。彼女は夢からさめかけた者のように、不審そうに部屋の中を見回していたが、ふと山部の顔を見ると、ほっと安心したように、 「あたし、どうしたのでしょう、夢でも見ていたのでしょうか」  と寒そうに身ぶるいをしながら、体をすぼめて低い声でそうつぶやいた。 「あっ、静江さん。気がついたんだね」  山部があわてて、彼女の身のまわりに夜具を着せかけてやるのを都築は黙って見ていたが、 「ちょうどいい、静江さんの気がついたのはさいわいだ。山部君、この人の口からなにもかも聞くがいい、そうすれば、君たちがつまらない心配から、この事件を紛糾《ふんきゆう》させていたのだということに気がつくよ」  彼はそういって、にこやかに微笑《ほほえ》みながら紫色の煙を吹かした。静江は眼をつむって軽く頭を振っていたが、ふと気がついたように、 「そうそう、さっきだれかが、白鳥芙蓉は短刀で殺されたのだといっていたわね。あれはほんとうのことなの?」  山部は静江の顔を見ながら、黙ってうなずいてみせた。彼にもどうやら、この事件のくいちがいが漠然《ばくぜん》とわかってきたものらしい。私は黙って二人のようすを見ていた。 「どうしたのでしょう? あたし」  静江はうつむいてじっと畳の上に眼をすえていたが、 「夢でも見ていたのかしら」  と不思議そうにつぶやいた。 「夢じゃありませんよ、静江さん、あなたはあの晩のできごとをもう一度思いだして話してみなけりゃいけませんよ。そうすれば、なにもかもわかることだから」  都築はかたわらからいたわるようにいった。すると静江は急に思いだしたように、さっと恐怖の色を眼のなかにうかべて、 「ああ、やっぱりそうなんだわ、ねえ短刀で殺されていたというのは嘘なんでしょう。毒をのんで、——それで死んでいたんでしょう。そうだわ、そうだわ、やっぱりあたしが殺したんだわ」  とそういったかと思うとさめざめと泣き伏した。それを聞くと、山部の顔には急に困惑の色がうかんできた。彼はなにか、説明をもとめるように都築の顔を見ていたが、やがて静江のからだを抱き起こすと、そっとその耳もとにささやいた。 「どうしたのさ。静イちゃん。君はなにもかも話さなきゃいけないよ。白鳥芙蓉は本当に短刀で突き殺されていたんだよ」  静江はそれを聞くと、むっくりと頭をもたげた。 「山さん、それはほんとうなの。白鳥芙蓉が短刀で突き殺されたというのは、ほんとうなの」 「ほんとうとも、だれが嘘なんかいうもんか。しかし静イちゃんはそのことを知らなかったのかい」  静江ははげしい心のうごきをしずめるように、じっと胸を抱いて、虚空《こくう》に瞳をすえていたが、 「知らなかったわ。だって、あの女はたしかにあたしの眼の前で毒をのんで死んで行ったんですもの」 「ところが、そのときはまだほんとうに死んでいなかったのですよ」  都築はおだやかなまなざしで相手の昂奮をやわらげるように、 「だから間もなく息を吹きかえしたのです。そこをだれかに突き殺されたのですよ」  それは私たち三人にとって、ともに初耳だった。ことに静江は意外そうな眼を見張りながら、 「まあ、死んでいなかったのですって、でも、でも——」 「ほんとうですとも、ぼくは嘘なんかいいませんよ。しかし、静江さん、あなたはどうしてあの女に毒なんかのませたのです。それをぼくに話してくれませんか」  都築は静かにたずねた。それを聞くと、静江はちょっと肩をすぼめて身ぶるいをしたが、低い声で、 「ええ、お話ししますわ。でも、あの女が短刀で突き殺されたというのは、なんという意外なことでしょう」  とほっとため息をついて、やがて彼女は静かに話しはじめた。 「あたし、あの晩はよっぽどどうかしていたのですわ。でも、腹が立ってたまらなかったのですもの——あたしがあの女の家へ行ったのは、そう、九時半——十時ちょっと前のことでしたわ。玄関に立って案内をこうと、白鳥芙蓉自身が二階から降りて来ましたの。あの女はあたしの顔を見ると不審そうに立っていましたが、あたしはそのとき、ふと、玄関の帽子かけに見おぼえのある服部さんのらしい帽子がかかっているのを見つけたので、あたしは思わずかっとして、なにかいっている白鳥芙蓉を突きのけて、いきなりつかつかと二階の化粧部屋へ上がって行ったのです。すると、そのとたん、だれかがさっと、隣室へかくれたらしく、カーテンが揺れました。あたしはそれを見ると、無性に口惜《くや》しくなって、そのカーテンのそばへ寄っていきなりそれをめくってやろうとしたのですが、するとそのときいきなり、うしろから白鳥芙蓉が来てあたしを抱き止めたのです。 『いったい、あなたはなにをするのです。失敬な』  と白鳥芙蓉はカーテンの前に立ちはだかったまま、眼をいからしてあたしを睨《にら》みつけています。 『なにをするって、服部さんを連れに来たのですよ。さあ、さっさと服部さんをここへ出してちょうだい』 『いいえ、そんな人はここにはいませんよ』  白鳥芙蓉がそういっているとき、あたしはふと、化粧台の上にあるダイヤの頸飾りを見つけました。それはたしかに、あたしが服部さんに預けておいたものなんです。それを見ると、あたしはまたかっとして、いきなりそいつを取り上げると、ずたずたに引き裂いて、窓の外へ投げ出してやりました。 『まあ、なにをするのです、この人は——いったいあなたはだれです!』  白鳥芙蓉は呆気《あつけ》にとられながらも、あたしを抱き止めるようにしてはげしい声音でそうたずねました。 『まあ、あたしをだれだとおたずねになるの、ホホホホ、あたしは遠山静江よ、あたしの名はたぶん服部さんからお聞きのはずだと思うわ』  あたしがそういいますと、白鳥芙蓉はさっと顔色を変えて、二、三歩よろよろとうしろへよろめきました。そしてじっと穴の開くほどあたしの顔を見つめていましたが、ふいに顔をおおったかと思うと、なにかしらわけのわからないさけび声をあげました。見ると、その指の間からポタリポタリと涙が落ちています。あたしはこんな女にでも、やはり羞恥《しゆうち》だの、後悔だのという考えがあるのだろうかと思いながら、あまりに激しい相手の変化にしばらく呆然としていたのですが、するとそのとき、そわそわとカーテンの向こうで人の身うごきをする気配がしたのです。それを見ると、あたしはまたしてもむらむらと怒りがこみ上げてきて、 『服部さん、男らしくさっさと出ていらっしゃいな。あなたが出ていらっしゃらなければ、あたしにも覚悟があってよ』  あたしはそういってしばらく待っていたのですが、カーテンの向こうではじっと息を殺しているようすです。あたしはつくづく男の意気地なさに愛想《あいそ》がつきてきました。 『ホホホホホ、意気地なし、あなたなんか出てこなくてもよござんす。あたしは勝手にこの白鳥さんときまりをつけるんですから、あなたはそこで見物していらっしゃい』  あたしはそういいながら、かねて用意して来た亜砒酸の粉末を、そこにあったグラス一つにぶちまけて、その上へなみなみとベルモットを注《つ》いだのです。そしてもう一つのグラスのなかへも、同じようにベルモットを注ぐと、なんども二つのグラスの位置を置きかえて、さてあたしは白鳥芙蓉に向かっていったのでした。 『さあ、どちらでもいいから、このグラスのうちの一つをお飲みなさい。今ごらんになったように、このうちには一つには毒薬がはいっていますのよ。だけどあなたもあたしも、それがどちらのグラスだかわからない、さあ、どちらでもあなたの思うほうを取ってちょうだい』 『まあ、あなたは』  白鳥芙蓉は真っ蒼な顔をして、あえぎあえぎそういいました。しかし、あたしは相手のことばをいちはやくさえぎると、 『あなたは怖いのですか。ホホホホホ、どうせ他人の恋人を横取りするくらいのあなたじゃありませんか。これぐらいの覚悟はあるはずですわ。さあ飲んでちょうだい、ちょうど隣の部屋に服部さんがいるのはさいわいですわ。あの人の前であなたかあたしか、どちらかが死んでみせようじゃありませんか』  あたしはそういいながら、白鳥芙蓉につめ寄りました。しかし、相手はただぶるぶるふるえているだけでいっこう手を出そうとはいたしません。あたしはそれを見るとじれったくなってきたので、やにわにそのグラスのうちの一つを取り上げると、ぐいと一息に飲み干した、白鳥芙蓉はそれをみると、驚いてあたしの腕にすがりついてきましたが、すでに遅かったことに気づくと、 『ああ、なにもかも天罰だわ』  そういって、彼女は両手を握りしめたまま、じっとあたしの顔を見つめていましたが、やがて静かに、残ったグラスに手をやると、それをグビグビと一息に飲み干したのでした。  しばらくそうして、あたしたちは黙っておたがいの顔を見つめていました。すると、そのうちに白鳥芙蓉のようすがだんだんかわってきたのです。最初彼女は苦しげに肩で息をしはじめましたが、やがて間もなくよろよろとそばの椅子に崩折《くずお》れました。見るとその顔色は紫色にかわり、眼は異様につりあがって、顔にはいっぱい玉の汗がにじみ出しています。それを見るとあたしは急に自分のしたことが恐ろしくなってしまいました。 『白鳥さん、しっかりしてちょうだい! 苦しいんですの、苦しいんですの?』 『いいえ、いいえ、寄らないでちょうだい、寄らないでちょうだい!』  白鳥芙蓉は椅子の中で身もだえをしながらも、そばへ寄ろうとするあたしの手をはらいのけるのです。 『許してちょうだい、許してちょうだい! ああ、ああ、どうしたらいいんだろう。白鳥さん、しっかりしてください』  その時とつぜん、白鳥芙蓉は『静江さん』と力のない声で呼びました。そして、『お願いですから、あたしの額に接吻《せつぷん》してちょうだいな——それから、それから、あなたは早くここを出て行ってちょうだい——、だれにも見られないうちに、だれにも見られないうちに——』  そういう白鳥芙蓉の声はだんだんかすれて、低くなっていきました。そしてやがてちからなくがっくりと床の上にずり落ちたのでした——」  静江はそこでほっと息をつくと、恐ろしさに肩をすぼめて、なみいる人々の顔をじゅんじゅんに見回していった。それから、ちからのない悲しげな声でその後へつけたしたのである。 「あたし、あまりの恐ろしさに、思わず部屋をとびだそうとしましたの。でも、そのとき、ふと白鳥芙蓉が死ぬ前の頼みを思いだしたので、もう一度ひきかえすとそっとその冷たい額に接吻して、それからあの屋敷を出たのでした」  そういって静江は黙って眼を閉じた。    第七章 切 迫     一 脅喝者 「どうだ、大分事件が整理されたじゃないか」  汚い荒物店を出ると、都築はほっとしたように、大きく息を吸いこみながら、私の顔を見てそういった。 「そうだね。不要な嫌疑者《けんぎしや》がこれで二人除去されたわけだね。しかし、真犯人にはまだ一歩も近づいていないじゃないか」  山吹町の通りには、もう灯《ひ》がはいって、夜店のアセチレン・ガスが蒼白《あおじろ》い光をまたたかせている。都築は口にくわえた煙草の火を光らせながら、ゆっくりした歩調で歩いていた。 「そう思うかね。ぼくは、しかし、その反対だな。不要な嫌疑者を除去するということが、つまり真犯人に近づく第一歩でもあるよ」 「君のいう真犯人とは、あの女中のおすみのことかね」 「さあ、どうだか」  と都築は軽くステッキを振りながら、 「いずれにしても、この事件には妙にいろんな不要な人間がからんでいるので、一見すこぶる複雑に見えるのだよ。たとえば今の二人だ。ああいう若者たちが、不要な小細工を弄《ろう》しているために、事件がこんがらかってしまったのだ。ところで、あの二人ときたら、この事件の真相とは、ほとんどなんの関係もないんだからね」 「それはそうと——」  と私はそこでふと思い出してたずねた。 「君はどうして知っていたんだね。ほら、遠山静江と毒薬の一件さ」 「なに、あれはなんでもないさ」  都築は吐き出すように、 「現場にあったグラスを仔細《しさい》に検査すればだれにでも疑いの起こることだよ。ぼくはそれでこう思った。毒薬と短刀と、ここに二つの凶器がある。しかし、白鳥芙蓉の殺されたのは毒薬じゃない。ないが、その毒薬も十分人を殺害し得る性質のものである。それでぼくはふと毒薬と遠山静江とをむすびつけてみたのだ。彼女は白鳥芙蓉を殺害したものと信じ切っている。しかも、現場には結果において不十分だったが、十分人を殺し得る薬の痕跡が残っている。だから、遠山静江はこのほうに関係があるんじゃないかとね。しかし、ぼくもまさかあんなふうに毒薬が使用されたとは思わなかったよ。君よくおぼえておきたまえ。ああいうのを英国流の決闘というのだよ」  都築はそういって、ふと口をつぐんだ。彼はなにかしら暗澹《あんたん》たる面持ちを見せて、じっと街の灯に眼をすえていた。なにを考えているのかむろんぼくにはわからない。が、そのとき私はふと思いだしたことがあった。 「時に君は、さっきあの家を出るとき、山部を呼んでなにか話をしていたが、いったいなにをいっていたのだね」 「ああ、あれか」  都築は急に夢から覚めたように、 「なあに、あれはあの人たちの不安をのぞいてやったお礼に、ちょっと働きを頼んだのさ。山部は喜んで引き受けてくれたよ」  都築はそういったが、その働きというのが、どういう種類のものであるかは語らなかった。  私たちは、それから、簡単な晩飯を付近のレストランですますと、すぐに自動車を呼んで検事局へ向かった。  都築があらかじめ電話をかけておいたものと見えて検事局の一室では、篠山検事がかなり厖大《ぼうだい》な調書を前に、首をひねりながら私たちを待っていた。 「どうでしたね」  都築は検事の顔を見ると、いきなり親しげにそう声をかけた。 「ああ、君か、ちょうど今帰したところですよ」  篠山検事はむずかしそうな顔を緊張させていった。 「フウ、そして相手の男というのはわかりましたか」 「わかりましたよ。最初はなかなか口を割らなかったが、君から聞いたカフェー・リラの女給を呼び寄せておいて突きつけたものだから、とうとう泥を吐いてしまったよ」  二人の口ぶりでは、どうやら女中のおすみを訊問《じんもん》した結果を話しているらしかった。思うに、都築は私のこころみた冒険の結果を篠山検事に報告して、もう一度、おすみのあの夜の行動を調べさせたものらしい。 「それで、相手の男というのは——? あの女がカフェー・リラでひそかに会った男というのはいったいだれだったんですね」 「それがね」  と検事は顔をしかめながら、 「実に以外な人物なんです。今有力な嫌疑者として目されている遠山静江の父親、遠山梧郎だというんだよ」 「フウン」  都築はしばらく黙然《もくねん》として考えこんでいたが、 「で、あの女はなぜ白鳥芙蓉などと、名前を騙《かた》ってその遠山梧郎を呼び出したというんですね」 「それが、つまり一種の脅喝《きようかつ》ですね。あの女も言を左右にしてはっきりといわないが、要するにこうなんです。遠山梧郎はずっと昔、二十年も前に、白鳥芙蓉と名乗って詩を書いていたじぶんがある。その当時いまの白鳥芙蓉は、当時は本名の木沢美智子だったが、その女としばらく同棲《どうせい》していたことがある。女は間もなく他に男をこしらえて逃げ出したが、遠山梧郎はその後ひどく当時のことを世間に知られるのをきらっているらしいのです。無理もない話ですね。いまでは道学者で通っている人だし、それに相手の女が女だからね。  ところが女の方では、その後|淫蕩《いんとう》のかぎりをつくしながら、結局、金に困ると昔の関係をたねに遠山梧郎から絞っていたらしい。白鳥芙蓉などと男の昔のペンネームを芸名にしたのも、つまりいやがらせというか、まあ一種の脅喝ですね。ところが、その秘密をあの女中おすみが知って彼女も白鳥芙蓉には内密で、いささかなりとも遠山梧郎から金を絞ろうとしたものなんです。白鳥芙蓉の名前を騙ったのも、そうすればきっと相手の男が来ることを知っていたからでしょう。なんでもあの晩、女中のおすみは、その昔遠山梧郎と木沢美智子と、そして二人の間に出来た女の子と三人で撮っている写真を、かなりの大金で、遠山梧郎に売りつけたらしいんですよ」 「え? なんですって? じゃ二人の間には女の子があったんですか?」  私はふとあることを思いうかべて、思わず早口にそう訊ねた。すると、都築はそれを叱りつけるように、尖《とが》った声で私をおさえつけた。 「そうさ、それがあの遠山静江さ。しかし」  と彼は声を落として、暗澹とした顔つきでいった。 「こんなことはなるべく、だれの耳にも入れたくはないな」 「ところが、そういうわけにはいかないのです。実は明日は遠山梧郎を召喚しなければならぬかもしれぬのですよ」 「え? それはどうして?」 「これは女中のおすみのことばなんですが、彼女は遠山梧郎が犯人じゃないかというのです。というのは、白鳥芙蓉はその写真のほかに、まだまだ昔の関係を証明する有力な書類をたくさん持っていた。女中はその書類のかくし場所を知っていて、それをあの晩、遠山梧郎に話したのだそうです。そうして帰って見るとあの惨劇で、しかも例の書類の隠し場所をしらべると、それが無くなっている。しかもその場所を知っているのは、白鳥芙蓉と自分を措《お》いては、遠山梧郎よりほかにないというのです。彼女のいうのには、カフェー・リラを出た遠山梧郎は自分の先回りをして、あの惨劇を演じたのじゃなかろうかというのです」 「なるほど、それも一理ある考えですね。しかし、ぼくはその必要のないことを祈りたいですね」  都築のことばがまだ終わらぬうちに、検事の前の卓上電話の呼び鈴《りん》がはげしく鳴りだした。篠山検事は受話器をとって聞いていたが、すぐ都築の方へふりかえった。 「君へですよ」  都築は予期していたように、受話器を横から奪いとるようにして耳へ当てたが、やがてそれをかけるやいなや、昂奮《こうふん》した面持ちでさけんだ。 「二人ともすぐ帽子をかぶりたまえ。君たちに犯人の名を教えてあげよう」     二 犯人の帽子  検事局を出た私たち三人は、すぐ検事の呼んだ自動車にとび乗った。篠山検事も私も、都築のこの唐突な行動の意味がよくのみ込めなくて呆然《ぼうぜん》とした。都築は都築で、日ごろになく昂奮した態度で、しきりになにか口のなかでつぶやいている。彼は自動車に乗ると、すぐ早稲田へといったが、その早稲田になにが私たちを待っているのか、それさえも私には見当がつきかねた。 「犯人の名を教えるといって、いったい、今の電話はだれからなんですか」  しばらく黙っていた都築のようすを見ていた篠山検事は、たまりかねたようにそうたずねかけた。 「しばらく待ってくれたまえ。ぼくは自分の眼で見とどけたことでないといいたくないんだ。しかし、今の報告がまちがってないことだけはぼくが保証する。なぜといって、その報告はぼくの想像とピッタリ合っているんですから」  都築はそれ以上のことはなんといっても語らなかった。私はこのときほど、自動車の速力のにぶさを感じたことがない。自分たちの行く手にいかなる奇怪なる事実が待ち受けているのだろうか。そこには、あるいは凶悪なる犯人の魔手が私たちを待ち受けているのではなかろうか——。  しかし、事実はいたって簡単だった。  早稲田の終点で自動車を降りると、私たちはそこからごみごみした横町へとはいった。ときどき都築は立ち止まって、道行く人をとらえて、なにかきいていた。  そうして五分ほども聞いて回ったあげくに、とうとう都築が見つけ出したのは、意外にも、一軒の小さなおでん屋だった。都築はその前に立って、もう一度看板を見なおしてから、私たちに眼くばせをして、ずいとその暖簾《のれん》をくぐった。 「いらっしゃい!」  という声と共に、いきなり私の眼に映ったのは、これまた意外な人物であった。さっき別れたばかりの山部時彦が、私たちの姿を見ると、待ちかねたように奥の仕切りから顔を出したのである。都築はそれを見ると、私たちに眼で合図をしながら、ずんずんと奥へとおった。さいわいまだ時間が早いので、おでん屋の土間には一人の客もいなかった。だから、この奇妙な三人の客にたいして、だれ一人疑いを抱く者はなかった。  山部時彦は私たちがはいって行くと、すぐに薄暗い帽子掛けにかかっている黒い帽子を指さした。都築はそれを見ると、無言で手に取り上げて、なかの汗革を検《しら》べていたが、やがて、満足らしい微笑を洩らすと検事のほうをふりかえった。 「これが、犯人の帽子です。ごらんなさい。なかの革に打ち抜きで、犯人の頭文字がでていますから」  検事は半信半疑でそれを手にとった。中の打ち抜きの頭文字——それはK・Kであった。 「これが犯人の帽子ですって? どうしてそれがこんなおでん屋などにあるのです」 「それは、私よりここの主人に話してもらいましょう」  おでん屋の主人は、すでに容易ならぬ事件に自分が関係していることをさとったのだろう。真っ蒼《さお》な顔を緊張させて、かたわらに固唾《かたず》をのんでひかえていた、都築はそのほうへふりかえった。 「君、君、この帽子がどうしてここにあるのか、正直に話してくれたまえ」 「はいはい」と主人は両手をもみながら、山部の方を顎《あご》でさして、「それは今も、この方にくわしく話したところですが、一昨日の夜おそくのことでございます。さあ、一時半ごろのことでございましたでしょうか。店をしまいかけたところへ若い、二十五、六の方がとび込んでお見えになりまして、ウイスキー五、六杯、たて続けにあおってお帰りになりました。その方がお忘れになったもので、後で気がついたのですが。その時にはもうお姿が見えませんので、いずれ取り戻しにおいでになることとお預りしておいたのでございます」  その青年の人相を聞くとたしかに服部清二である。一昨日の夜といえば白鳥芙蓉が殺された夜のことであるし、一時半といえば、彼が白鳥芙蓉の屋敷をとびだして、その足でこのおでん屋へ立ち寄ったとして、ちょうど時刻も符合している。 「ありがとう」  都築は主人に礼をいうと、篠山検事の方へふりかえった。 「いかがです。これでこの帽子がここにある理由がおわかりになったでしょう。と同時に、服部清二は白鳥芙蓉の玄関にかかっていた帽子をかぶった。そしてそれは決して、あの八畳の部屋に忘れたのではなかったということもおわかりになったでしょう。つまり軽部謙吉氏が玄関で見た帽子と、後に八畳の部屋からでてきた帽子とは初めから別のものだったんです。服部清二は気が顛倒《てんとう》している際だし、それに似た帽子だから、まちがってそれをかぶって出た上に、ごていねいにもこのおでん屋へ置き忘れたりして、知らず知らずの間に犯人をかばっている結果になったのですよ」 「しかし、しかし、このK・Kというのは——」  だが、検事のことばがまだ終わらないうちに、表のほうから一人の客がはいって来た。私たちは主人を呼ぶその客の声を聞いた瞬間、思わずはっとして息をのみこんだ。客は二、三品の食べ物と銚子《ちようし》をあつらえた上に、こうことばをつけたした。 「時に君、一昨日の晩、そうだ一時半ごろだろう、ぼくの友人の青年が、どこかこの近所の飲み屋で帽子を忘れたというのだが、君んとこじゃなかったかね」  それを聞くと主人はギクとして顔色を変えたらしかった。 「へえ、そのことなら今——」 「え? 今? どうしたのだね」  客の声の調子が変わった。急に不安が増してきたように、彼はヒョイと腰をうかせたが、そのとたん彼は世にも恐ろしいものを見たのである。  都築欣哉と、篠山検事と、私と、そして都築の手にした黒い帽子を—— 「軽部さん、これは意外なところでお目にかかりましたな。あなたもやはりこの帽子をお探しですか」  ふいに棒を呑んだように軽部謙吉氏は突っ立った。が、つぎの瞬間には、燕《つばめ》のように身をひるがえして、店からとびだして行ったのである。それには、さすがの篠山検事も手を出すいとまがなかったくらいの素早さであった。それにどういうものか、都築のそのときの位置が、検事の敏捷《びんしよう》な行動をさまたげたようにも思われたのであった。  軽部謙吉氏が自殺した今となって、私はこの事件の原因をなした、あのいまわしい事情をくだくだしく述べることはひかえたいと思う。  ただ簡単につぎの二つのことを知っていただければ諸君も満足されるだろう。  十数年以前、当時、遠山梧郎氏と同棲していた木沢美智子と手をとって駈落《かけお》ちした相手というのが、軽部謙吉氏であったこと、ともう一つ、最近彼が自分の上役の令嬢と結婚しようとしていたというこの二つのことを——。  それにしても、二十年に近い昔にあった、そんな些細《ささい》な色情関係を、今ごろまで気にするのは、おかしいという疑問を持たれる疑い深い読者には、いたしかたない、もう一つの秘密を打ちあけよう。  それは軽部謙吉氏が死の直前に、都築に書いて送った告白書に同封されていた一通の書類で、その書類こそこんどの犯行の原因をなしたものであった。そしてその書類は、明確につぎのいまわしい事実を語っている。  白鳥芙蓉が産んだ娘遠山静江は、その実、遠山梧郎の子供ではなくて、軽部謙吉氏の子供であることを——。  ——あの夜私は、その書類を取り戻すつもりで、ひそかに白鳥芙蓉、いな、木沢美智子と会談したのです。が、その話が終わらないうちに邪魔がはいりました。ああ、あのとき、隣室のカーテンの蔭にかくれて、二人の女の争っているようすを聞いていた私の心はどんなだったでしょうか。一人は昔の情人であり、そしてもう一人はその情人との間に生まれた自分の娘なのです。しかも、その二人は今同じ青年をはさんで争っている——。私はこのいまわしさに、穴があればはいりたい気持ちでした。しかも、それでもなお、ついにあの場へとびだして、二人の無謀な決闘を思い止まらせようとしなかった私——。  ——それを思うと私は慚愧《ざんき》に耐えません。しかも、私は卑怯にも白鳥芙蓉を殺しさえしたのです。そうです。静江が立ち去ったのち、そっと化粧部屋へ出た私はてっきり白鳥芙蓉は今の毒薬で死んだものと思い、ゆうゆう部屋のなかを捜索していました。書類を見つけるためです。ところが、とつぜん息を吹き返した白鳥芙蓉が、やにわに私にとびついてきたのです。たぶん毒薬の量が足りなかったものでしょう。白鳥芙蓉はほんとうに死んでいたのではなかったのです。私は夢中でした。恐怖と驚愕《きようがく》のために、自分の手に取り上げたものがなんであったか、それすらもわきまえず、女の胸に突き刺してしまったのです。  ——しかし、おかげで書類は手に入れました。もしあの帽子さえ忘れて帰らなかったら。帽子を忘れたことに気がついたのは、家へ帰ってからでした——。  ——帽子を忘れたことは私の最大の恐怖でした。あれには頭文字が打ち抜いてある。どんな危険を冒してでも取り戻さねばならない。私はいったん家へ帰ったのですが、どうしてもそのことが気になってたまらなかったのです。そこで別の鳥打ち帽をひっかぶると意を決して、もう一度現場へ戻ったのです。そして新井巡査に突き当たったのです。  ——それ以後のことはごぞんじのとおりです。服部清二のために新井巡査と二人、あの化粧部屋へ閉じこめられた時、本当のことをいうと私はしめたと思ったのです。新井巡査の前ではかくすわけには行かなかったあの帽子を、この機会にかくそうと思って、私は危険を冒して二階の窓から飛び降りたのです。しかし、これが神のお裁きというのでしょうか。そのときは、一歩のちがいで、服部清二がまちがってその帽子をかぶって行ってしまったあとだったのです。  ——この帽子のことは絶えず気になっていました。検事たちの前では嘘をいったものの、もし、服部清二がかぶって行った帽子がでてきたらどうしよう——。ところが、意外にも、あの晩下宿へ帰った服部清二は帽子をかぶっていなかった。そして多分に酔っ払っていたという。そこで、白鳥芙蓉の屋敷を出た服部清二は、途中どこかの飲み屋へ寄ってそこで帽子を忘れたのだ——。私はそう考えました。まさか、それをわざわざ私に教えてくだすったあなたが、最初から私を疑っていてわざと私を釣《つ》り出すために知らしてくれたのだとは夢にも知りませんでした。これが運の尽きとでもいうのでしょう。(後略)  事件が片づいてからだいぶあとのことであった。  あるとき、私はふと都築にこんなことをたずねた。 「君は、あのおでん屋を初めから知っていたのかい?」 「いいや、ただ、軽部謙吉が告白書でいっているのと同じ理由から、服部清二が下宿へ帰るまでに、どこか立ち寄って酒を飲んだことだけは推察していた。しかしそのおでん屋をさがし出すことは造作《ぞうさ》ないと思っていたよ。白鳥芙蓉の屋敷を飛び出したとして、まず道順からいって早稲田|界隈《かいわい》が眼につく。その早稲田でも、一時過ぎ、二時近くまで店を開いている家はそうザラにないからね。それで山部時彦にそういってさがさせたのだが、危いところでしたよ。一足ちがいだったからね」 「しかし、君はあのとき妙な素振りをしたじゃないか。君は軽部謙吉を捕えようとすれば捕えられたはずだぜ。それだのに、かえって篠山検事の邪魔をしたようにさえ思われるよ」  都築はぎょっとしたように私の顔を見たが、やがて低い声でいった。 「軽部謙吉は坂本義臣氏の令嬢と婚約の間柄だったからね。ぼくは坂本氏の寿々子さんも知っている。だからなるべくあの男に自殺してもらいたかったのだよ」  都築欣哉はそういって、じっと私の眼の中をのぞきこんだ。 「いいよ、だいじょうぶだよ。ぼくはだれにもそんなことはしゃべりやしないから」  私はそういう意味の無言のことばをこめて都築の眼を見かえしたのである。 [#改ページ]       腕《うで》 環《わ》     一  小説家の青木愛三郎《あおきあいさぶろう》は、この間から欲しい欲しいと思っていた腕環を、ようやく手に入れることができたので、すっかり心が弾《はず》んでいた。彼は店を出ると、すぐその足で京子のもとを訪ねようかと思ったが、考えてみると今日は金曜日である。京子は一週間のうち、月、水、金の三日間は、ピアノの先生へ通うことにしていたので、六時過ぎでなければ訪ねて行っても会えないのだ。  青木は思い直して、銀座で飯でも食ってからにしようと思ってタクシーを呼び止めた。  自動車の中で途々《みちみち》 懐《ふところ》 勘定《かんじよう》をしてみると、金はまだ大分残っていた。腕環は思ったよりずっと安かった。青木はそれで、二重の喜びにひたりながら、腕環を見せたときの京子の様子を想像してみたりした。  尾張町《おわりちよう》の角でタクシーを乗り捨てて、電気時計を見ると飯を食うにはまだ大分時間があった。青木はそれで、少し散歩して、気に入ったネクタイでもあったら買おうと思って歩きだしたところを、ポンと背中をたたかれた。 「やあ」 「やあ」 「しばらくだったね」 「しばらく、なんだかいやにうれしそうじゃないか」 「ウン。ちょっとね。君のほうは?——相変わらず忙しそうだね」 「まあね。——近ごろちょっとしょげてるところでね。何かおごらないか」 「ウン、おごってもいい。しかし、君にしてしょげることありとは、近ごろ珍しい話だね」  そんなことを言いながら、どちらからともなく肩を並べて新橋のほうへ歩きだしていた。  橋場《はしば》——その男の名だが——はH新聞社の社会部記者で、相当敏腕家だといううわさである。青木とは大学時代の同窓だが、見るからに敏捷《びんしよう》らしい、頭も顔も体も、全体がくりくりとした感じのする男だ。青木はこの男の毒気のないところをむかしから好いているので、ちょうど幸い、いっしょに飯でも食おうと思った。 「それで、どうしたんだね。しょげてるというのは? 失恋でもしたのかね」 「そんな色っぽい沙汰《さた》ならいいんだがね、仕事のほうで少ししくじりをやったもんだから、さんざんさ、いやンなっちゃうよ」  橋場は真実しょげてるように肩をすぼめてみせて、 「ほら、君も知ってるだろう、古峯《ふるみね》博士邸の強盗事件さ。あいつで少しまずいことやっちゃってね」 「ウン、あの事件か、あれなら僕も読んだが、別に君のほうの記事だってまずくはなかったじゃないか」 「まずくはないんだ。まずくはないんだが、少し要らぬことを書き過ぎたんでね、尻《しり》を持ち込まれて弱っているんだ」  古峯博士邸の強盗事件というのはたぶん諸君も覚えているだろう。正当防衛に関する法令が改められてから、初めて適用された事件として大分世間の問題となった。事件の大体の外郭を書いてみるとこうだ。  古峯博士は麹町《こうじまち》三番町に広大な邸宅を持っている。博士は人も知る栄養科学の権威で、氏の創成にかかる美味素[#「美味素」に傍点]はいまや全世界に販路をひらいている。博士の現在持っている莫大《ばくだい》な財産も広大な邸宅もすべてその利益から得たものであるといううわさだが、そんなことはどうでもいい。博士には一人の男の子があるが、その子供は目下アメリカの理化学研究所で勉学にいそしんでいる。従って三番町の邸宅には博士夫妻と数人の召使しか住んでいなかった。夫人の奈美子《なみこ》というのはまだ三十になるやならずのすてきな美人で、夫とは三十以上も年齢《とし》が違っている。無論後妻で、アメリカにいる博士の長男とも継《まま》しい仲だった。  さて、事件の当夜三番町付近を巡回していた警官のB——は、深夜の十二時過ぎ、博士邸の奥庭から二発のピストルの音と、ただならぬ女の悲鳴を聞きつけて、あわてて表門のほうへ駆けつけてみると、表門の横にあるくぐりが開いているので、そこから入ろうとすると、バッタリと取り乱した奈美子夫人に会った。 「どろぼう——、どろぼう——、夫《たく》が——、夫《たく》が——」  夫人は警官の姿を見ると、まるで気違いのように息も切れ切れにそれだけのことを口走ったが、そのままばったりと気を失って倒れてしまった。  夫人は夜会服《イブニングドレス》のままで、手にはまだ薄煙の立っているピストルをにぎっており胸に飾った宝石などには引きちぎられた跡があった。B——警官はそれを見ると、いきなり呼笛《よびこ》を吹き鳴らすいっぽう、声高《こわだか》に召使をたたき起こした。そしてこわごわ起きて来た召使に夫人の介抱をまかせると、折から呼笛を聞いて駆けつけて来た二、三の警官とともに、ピストルの音が聞こえた奥庭のほうへ進んで行った。すると、木立に囲まれた大きな古池のそばにある四阿《あずまや》のほとりに、二人の男が血に染まって倒れていた。その一人はこの家の主人古峯博士であったが、その姿は凄惨《せいさん》を極めていた。後頭部と前額《ぜんがく》に深い打撲傷《だぼくしよう》を受けて、そこから流れ出る血潮が、美しい白髪を真っ赤に染めている。よほど格闘をしたものらしく、服も外套《がいとう》も泥《どろ》だらけになっていて、無論、すでにこと切れていた。  その博士の死骸《しがい》と四、五間離れたところに、労働者ふうの男の死骸が横たわっていた。その男は、左の股《もも》と肺のあたりに、どちらも背部から受けたと覚しい弾丸傷《たまきず》を受けて死んでいたが、その懐《ふところ》からは、現金百余円入った夫人の紙入れと、その夜夫人が身につけていた三、四の宝石類が出てきた。  さて、それから間もなく生気にかえった夫人の陳述によると、悲劇の顛末《てんまつ》というのはこうであった。その夜夫人は、友人の誕生日の宴会に招かれて、帰って来たのはちょうど十一時半ごろであった。あいにく小間使は姉が病気だというので、二、三日暇をとって帰っていたし、夫の博士は研究所からまだ帰っていなかった。それで彼女は夫の帰りを待つつもりで、夜会服のまま本を取り上げて読んでいたが、するとそこへぬうっ[#「ぬうっ」に傍点]と例の労働者ふうの男が入って来た。夫人はあまりの恐ろしさに声を立てることもできなかった。そして言われるままに、紙入れと宝石類を取って与えた。賊はそれだけのものを手に入れると、すぐ出て行ったが、夫人は賊が立ち去ったあともしばらく恐怖のために身動きをすることもできなかった。彼女はじっと賊の去り行く足音に耳を澄ましていたが、しばらくすると奥庭のほうでどたんばたん[#「どたんばたん」に傍点]という激しい格闘の音が聞こえてきた。しかもそれに混って、夫の怒号する声が聞こえるではないか。  夫人はてっきり夫が帰って来て、賊の姿を見つけたのだと思った。すると彼女は湧然《ゆうぜん》として勇気が出てきた。夫の身を気遣う心が、恐怖を押しのけてしまったのだ。彼女はすばやく用箪笥《ようだんす》の中からピストルを取り出すと、それをにぎって奥庭へ出て行った。しかし、彼女の駆けつけたときは一足遅かった。賊は最後の一撃を加えると、博士の倒れるのを見すまして逃走しようとした。それを見ると夫人はもう夢中だった。彼女は賊の背後から二発ばかりピストルの弾丸《たま》を浴びせたことと、賊がそれによってばったり倒れたことを、覚えているきりで、その後《ご》はまるで夢のようにしか記憶していないというのであった。——  夫人のこの陳述には何ら怪しむべきところはなかった。賊の懐からは夫人の紙入れ並びに宝石類が出てきたことだし、博士の死体の側には賊が使ったと覚《おぼ》しい太い樫《かし》の棒が落ちていた。しかも、あとで分かったことだが、この賊は、前田定吉といって前科七犯という凶悪な男であった。新聞は筆をそろえて不幸な博士の死を悼《いた》むと同時に勇敢な夫人の態度を賞讃した。これがちょうど二週ほど前のできごとである。 「あの事件なら僕も読んだが、それで君の書いた記事のどこがいけなかったのだね」 「僕はね、この事件の強盗には共犯者があるという見込みで、そのことを力説しておいたのだが、それが夫人の気に触れたらしい。再三再四夫人から抗議を申し込まれたので、すっかりくさ[#「くさ」に傍点]っちゃったよ」  橋場は丸い顔をほんのり赤くして言った。 「共犯者があるというのが、どうして夫人の気に触れるのだろう」 「そんなことは分からない。たぶん夫人は女らしい虚栄から、自分の陳述以外のことをつけ加えられるのをきらうのだろう。しかし、まあ、いいや。それよりお茶でも飲もうじゃないか」  そこで二人は不二屋《ふじや》の二階へ上がって行った。ちょうど夕方の散歩時間前のことなので、客はそうたくさんいなかった。青木と橋場は隅《すみ》のほうのテーブルを見つけて腰を下ろしたが、橋場はすぐに自分の屈託《くつたく》なんか忘れた顔つきで、 「僕のほうの話はそれですんだが、ところで君のほうはどうだね。さっきからいやににやにや[#「にやにや」に傍点]うれしそうにわらっているじゃないか。いいことなら少し分けろよ」 「ウム、分けられるものなら分けてやってもいいが、こればかりはね」  青木はわざともったいぶった様子で、そう言いながら、ゆっくりと懐から青い包みを取り出すと、それをテーブルの上に置いた。橋場はそれを見ると、奪うようにして包みを開いたが、一目中を見ると、 「ナーンだ、腕環じゃないか」  と不思議《ふしぎ》そうにひねくり回していたが、「ははあ、そうか、京子さんへの贈り物だね。チエー、うまくやってやがら」  彼は吐き出すようにそう言って、ガチャンとそれをテーブルの上に置いた。そのときである。彼らの背後から「あっ」というようなかすかな声が聞こえた。驚いて振り返って見ると中年の美しい婦人が立っている。彼女は二人が振り返ったとたん、さっと顔を赤らめたが、すぐ気を取り直したらしく、 「まあ、美しい腕環ですこと、失礼ですけれど、ちょっと拝見できません?」と言った。 「さあ、どうぞ」  青木は内心どぎまぎしながら、それでもいささか得意でそう言うと、腕環を婦人のほうへ押しやった。婦人は手にとって、つくづくとそれをながめていたが、 「ほんとうに珍しい腕環ですわね。イタリア製ですね。失礼でございますけれど、これ、どこでおもとめになりまして?」 「はあ、麻布《あざぶ》のM——町の銀光堂という中古品店です」 「ああ、そう、あすこは中古ですけれど、ときどき珍しいものが出ますわね。どうもありがとうございました」  婦人はそう言うと、腕環をテーブルの上に置いてていねいに礼を言うと、そのまま階下《した》へ下りて行った。橋場はなんと思ったか、その婦人のうしろ姿が見えなくなるまで、じっと見送っていたが、やがてぐいと青木の横腹を肱《ひじ》で小突《こづ》いた。 「おい、君はあの女を知っているかい?」 「いいや、どうして?」 「あれさ、うわさをすれば影とやら、あれが古峯博士の夫人奈美子だよ」  そう言って橋場はなぜか厳粛な顔をした。     二  その晩青木は、友人を慰める意味でいっしょに飯を食ったが、おかげで京子を訪ねる時間をふいにしてしまった。 「なあに、明日《あす》は土曜だから、そのほうがかえっていいのだよ」  別れ際に橋場が気の毒そうに言うのに対して元気よくそう言ったが、家へ帰ってみるともう十一時を過ぎていた。青木は何をする気もなく机に向かって煙草《たばこ》の煙を吐き出しながら、買ってきた腕環をつくづくながめていたが、そのとき彼はふと、変なことを発見した。  というのは、その腕環の裏側には、細かい細工の花模様が彫りつけてあるのだが、よくよく見ているうちに、それが英語の花文字であることが分かった。なかなかうまく崩《くず》してあるので、初めのうちは読むのに骨が折れたが、ためつすかしつしているうちに、とうとう彼はそれを判読することができた。と同時に、青木はぎょっとしたように息をうちへ吸い込んだ。その花文字というのは、   Namiko Furumine  というのであった。  古峯奈美子——、古峯奈美子といえば、あの殺された老博士の夫人で、現に今日不二屋の二階で出会った女ではないか。では、この腕環はあの夫人の所有品《もちもの》だったのだろうか。無論そうに違いない。古峯という姓はそうたくさんあるべきはずがない。しかし、それにしても——  青木は何かしら、わけの分からぬ疑問に逢着《ほうちやく》したような気がした。彼の頭の中には、いろんな疑惑が走馬灯のように通り過ぎて行った。彼は小説家らしい空想から、その腕環についてさまざまなことを考えてみたりした。そうしているうちに彼は、ふとこれはただごとではないぞという気持ちがしてきた。明日《あす》になったらさっそく橋場に知らしてやろうと思った。  その翌日、京子を訪問することを延ばした青木は、丸《まる》の内《うち》のH新聞社に電話をかけた。 「君、ちょっと話があるんだが、社には何時ごろまでいるね」 「四時までなら確実にいるよ。しかし、話というのはなんだね」 「なあに、君の興味を持ちそうなことだ。楽しみにして待っていたまえ」  電話を切った青木は、それから二時間ほどして、H新聞社の応接室へ橋場を訪《おとず》れた。 「昨日は失敬」 「いや」  とそんな型通りのあいさつがすむと、青木はさっそく話を切り出した。橋場は熱心にそれを聞いていたが、見る見るその顔は緊張してきた。 「ちょっとその腕環を見せてくれたまえ」  橋場はまるで奪い取るように腕環を手にすると、明るい窓のそばで見ていたが、 「なるほど違いない。ナミコ・フルミネだ」 「そうだろう、それでおかしいのだ。これがあの夫人の物なら、なぜ昨日そう言わなかったのだろう」 「そうだ。それに昨日この腕環を見つけたときの夫人の様子はただごとじゃなかったぜ。あの夫人がまさかこれを売払うようなことはあるまいしね」 「どうだね。これから一つ銀光堂へ行って、だれから買ったかしらべてみないかね」 「よし!」  橋場は決然としてそう言うと、大急ぎで部屋を出て行った。かと思うと、すぐ帽子と上着を持って走るようにやって来た。  自動車の中では二人とも一言も口をきかなかった。何かしら非常に大事件のようにも思われるし、そうかと思うとまたたいへんくだらないことのようにも思われるのだ。  やがて麻布の銀光堂の表まで来ると、橋場はまるで飛び下りるようにして店へ入って行った。ところがそこで彼らが番頭からいきなりかけられたことばというのが、これまた二人を驚かすに十分だった。 「ああ、あの腕環について、何かおかしなことでもございましたのでしょうか」  青木の顔を見覚えていたとみえて、番頭がいきなりそう声をかけたのだ。 「え?」と二人は思わずそう聞き返した。 「さっきも、若い紳士のかたがおみえになりまして、あの腕環のことをお聞きになったのでございますが……」  番頭は不安そうに自分からそう口を切った。彼の言うところによると、一時間ほど前に、若い美しい紳士が来て、昨日青木に売った腕環の様子を詳しく述べたのち、それをどこから手に入れたか聞かしてくれろというのだった。 「ほほう、実は僕たちもそれを聞きに来たのだが……なに、心配することはないんだよ。ちょっとわれわれだけの要件でね」  番頭はそれでも不安そうにしばらく押し問答を続けていたが、やがてしぶしぶ大きな台帳を持って来た。橋場は手早く浅草区《あさくさく》××町××番地|山本虎市《やまもととらいち》という名前を控えると、なおも詳しく、さっき来たという紳士の風采《ふうさい》を聞いていたが、やがて「よし、君行こう」とその店を飛び出した。 「行くってどこへ行くのだね」  自動車の中で青木が尋ねると、 「無論、山本虎市という男を探しに行くのさ。君、さっき来た紳士というのがだれだか分かるかね」 「分からないね」 「沢井清彦《さわいきよひこ》さ、ほら、音楽家の……。そして古峯夫人の情人さ。こいつは少々おもしろくなってきたぞ」  橋場はすっかり興奮していた。  しかし、山本虎市という男を探すのはなかなか容易ではなかった。無論彼は家にはいなかった。近所で聞くと、怪訝《けげん》そうな顔をして、 「さっきもそんなことを言って尋ねて来た人がありましたが……」  と言いながら、それでも、親切に山本の立ち回りそうなところを五つ六つ聞かせてくれた。 「どうだね。沢井が先回りをしているんだよ、しかし、われわれはあいつより先に山本という男をつかまえなけりゃ——」  橋場は何かしら異常に興奮していたが、しかし、この仕事はなかなか容易ではなかった。  教えられたところを、順々に回ってみたが、どこでも失望を重ねるばかりだった。  が、最後にそれは、もう十二時近くだったろう。雷門《かみなりもん》の近くの酒場で、とうとう彼の消息を聞くことができた。 「山本さんですか。山本さんならさっき立派な紳士といっしょにお見えになりましたが、五分ほど前にここをお出になりました。そうですね、たしか吾妻橋《あずまばし》を渡って向こうのほうへ行ったようですよ」  これを聞くと、二人はその酒場を大急ぎで飛び出した。青木には何かしら尋常《じんじよう》でない気持ちがしてきた。いつの間にやら彼も橋場と歩調を合わしていた。そうして二人が吾妻橋を渡って、隅田《すみだ》公園のほうへ向かったときである。突然一町ほど先の暗闇《くらやみ》の中から悲鳴が聞こえてきた。  それを聞くと二人はぎょっとして足を止めたが、次の瞬間橋場は脱兎《だつと》のごとく走りだしていた。一足遅れた青木が、これもあたふたと駆けつけてみると、先に行った橋場が、地上にひざまずいて、一人の男を抱き起こしていた。見るとその男の横腹からは真っ赤な血がどくどくと吹き出しているのだ。 「おお、息はまだある。医者だ、医者だ」  橋場は興奮にふるえる声でそう叫んだ。  その翌日のH新聞の朝刊こそ、近来まれに見るセンセーションを惹起《じやつき》したものだ。他《た》の新聞が単に古峯夫人と音楽家沢井清彦の情死事件を伝えているだけだったのに比して、H新聞ではその背後に隠されている秘密をすっかりさらけ出してしまったのだ。ちょうど、日曜日で、夕刊のない日だったから、H新聞はたっぷり一日、他の新聞より先にこの特種《とくだね》を得たわけであった。  古峯博士惨殺の秘密——にくむべき妖婦《ようふ》と白面鬼情死の真相——  そういう表題のもとに、先ごろの強盗事件にさかのぼって書き起こしてあった。  秘密というのはこうであった。  古峯博士は強盗に殺されたのではなかった。犯人は実に夫人奈美子とその情人沢井清彦だったのだ。その夜、二人連れのどろぼうが博士の奥庭に忍び込んで、ときの来るのを待っていた。その前で世にも奇怪な事件が行なわれたのである。  夫人と清彦の密会——それを見つけた博士の激怒——続いて博士と清彦の格闘——そしてついに博士は清彦のステッキによって惨殺されたのである。これを見ていたどろぼうの一人、前田定吉は突然その場へ出て行った。夫人と清彦は失神せんばかりに驚いたが、間もなく彼らの間に妥協ができて前田の口をふさぐために多額の金と宝石が与えられた。金を取って来ると言って、いったん部屋へ引き返した夫人は、しかしそのときピストルを持って来たに違いない。前田定吉が金と宝石を受け取って逃げようとするところを、いきなり背後から撃ち殺したのだ。——こうして万事お芝居は首尾よくいった。だれも夫人を疑う者はない。現在どろぼうが目の前に死んでいたのだから。  しかし、唯一つ、夫人の気づかなかったことは、どろぼうが一人でなかったことだ。そこには、もう一人山本虎市という男が、くさむらの中で万事を見ていたのだ。彼は相棒《あいぼう》が殺されるのを見るとふるえ上がった。そして夫人が清彦を逃がしておいて、警官を呼びに表のほうへ回った間に、すばやく相棒の懐から腕環のほか、二、三の宝石類を盗んで逃げ出したのである。  夫人はしかし、死骸の懐にたしかにあるはずの宝石が二、三紛失しているところから、間もなく相棒のあったことに気がついたことだろう。それが彼女の恐怖の種だった。だからこそ、情人沢井清彦にその男を殺させようとしたのである。しかし神ぞ知ろしめす、断末魔《だんまつま》の山本虎市の口から、万事の秘密はもれてしまったのだ。  そしてことの破れたのを知った彼らは、法の手の届く前に毒をあおって情死をとげたのである。 本書には今日の人権意識に照らして不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品執筆時の時代背景や作品が取り扱っている内容などを考慮しそのままとしました。作品自体には差別などを助長する意図がないことをご理解いただきますようお願い申し上げます。 [#地付き](角川書店編集部) 角川文庫『芙蓉屋敷の秘密』昭和53年9月10日初版発行